2024年09月25日(水)
<讃美歌>讃美歌388番「とうとき血をもて」
<聖書日課>ヨハネ8章21~38節「神が喜ばれること」
神が喜ばれることは、人が、イエス様が「わたしはある」という方であることを知ることです。そのことばは、神がモーセを神の山ホレブで召された時に、モーセに語られた自己紹介のことばです。(出エジプト3章14節)
そのため、イエス様を「わたしはある」方として知ることは、その人が、イエス様が神であると認めることです。
イエス様はこのことばを、ご自分に反対するユダヤ人たち(特にパリサイ人たち)に話しておられます。彼らは、イエス様が神であることがどうしても信じられなかったのです。
彼らは、イエス様がガリラヤのナザレの出身で大工の息子である、とのイメージから抜け出せなかったのです。そのような彼らをもイエス様は憐れまれ、真実を教えようとされました。
「あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません」(23節)。
「わたしが、『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24節)。 これらのことばは、イエス様がご自分に逆らう者をも罪の滅びから救い出そうとされた憐れみのことばです。
それにもかかわらずユダヤ人たちは、自分の罪を認めようとせずに、彼らはイエス様を十字架で殺してしまうのです。 その事実は、イエス様が「あなたがたが人の子を上げたとき、‥」(28節)と言われたことばの成就です。
イエス様は言われます。「わたしはその方(父なる神)から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです」。(26節)
私たちも聖書のみことばを通して、イエス様が語られたことばを聞き、イエス様が行われたみわざを見ています。 それで私たちは、イエス様が神であり、私の罪を贖うために十字架で死んでくださったことを知っています。
またイエス様が「わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。‥わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです」(29節)と言われたように、イエス様が、私とともにいてくださることを知っています。
でも私たちは、信仰生活の中で「神が喜ばれることをいつも行って」いるでしょうか。いや、私たちの内には、神が喜ばれることを行う力はありません。その力は、信仰によってイエス・キリストを通して私たちに与えられるものです。
私たちが成すべきことは一つだけです。それは、イエス様が私の罪ために十字架で死んでくださったことを素直に受け取ることです。
私たちが、常に心をイエス・キリストに向け続けるとき、主は私たちを「神が喜ばれること」を行うものと変え続けてくださるのです。
これからも、私たちの救い主イエス・キリストを見上げつつ過ごさせていただきましょう。
感謝して、 アーメン