2024年10月16日(水)
<讃美歌>讃美歌393番「わが主 イエスよ」
<聖書日課>ルカ16章19~31節「人の評価と神の評価」
人は目に見えるものに影響されやすい傾向があります。それで人は、この世での安定した生活を得るために”富”を求め、この世での栄誉を得るために、より社会的に高い地位を求めます。
しかしながらイエス様は、そのような者には<大どんでん返し>が待ち受けていることをここで忠告されています。
今日の箇所は「ラザロと金持ち」のたとえ話としてよく知られています。イエス様が語られたたとえ話の中で、登場人物に名前が付けられているのは、ここに登場するラザロだけです。
ラザロとは、エルアザル(神が助け)の意味であり、イエス様はその名に彼が天の御国へ行くことが赦された理由を込めておられます。一方、金持ちが地獄へ落とされた理由は、自分の家の前の貧乏人を放置していたことだけで十分です。
ラザロは、人の評価という側面から見れば、まったく評価に値しないものでした。全身に出来物ができ、金持ちの家の門のところで寝るだけの生活です。それで死んだときも、誰にも葬られることはなかったのです。
対照的にこの金持ちは、世の人々からは、大いに評価されていました。紫の衣や柔らかい亜麻布は贅沢の象徴です。物質的には何不自由ない生活を過ごし、死んだときも人々によって葬られました。
ただラザロは、名前が示すように神からは評価され、天の御国に値する者としてアブラハムのもとに引き上げられました。しかし金持ちは、死後はよみで苦しむことになったのです。
ラザロと金持ちの死後の違いは、どこから来たのでしょうか。アブラハム(神)は言います。25節「おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた」。
人は、他の人の評価を第一とした時に、神の評価に無頓着になります。このラザロと金持ちの<大どんでん返し>は、人に神の評価を第一にすべきことを教えます。
人が、神の評価を第一にする。それは、その者がイエス・キリストから目を離さないことです。なぜなら、イエス様の内にこそ、神のご性質が形をとって宿っているからです。(コロサイ2章9節)
八鹿教会の一人ひとりが、常にイエス様から目を離さず、日々の信仰生活を過ごされますように祈っております。
アーメン