2024年10月30日(水)

<讃美歌>讃美歌370番「しずけき祈りの」

<聖書日課>マタイ20章29~34節「主よ、目を開けていただきたいのです」

この箇所は、27日の礼拝での説教箇所(マルコ10章46~52)とよく似ています。

マルコ10章では、目の見えない者は一人であり、名前もバルティマイであることが記されています。一方マタイ20章では、目の見えない者は二人となっており名前も記されていません。

これらの違いが生み出された可能性の一つとして、実際は二人いたが、マルコはそのうちの一人(バルティマイ)に焦点を当てて書いたことが考えられます。(マルコはペテロの証言に基づいて書いたとされています。)

ここでは二つの箇所の共通点に絞って、27日の礼拝説教を振り返りながら、イエス様が教えられていることを振り返ります。

この箇所から教えられる第一のことは、二人の盲人がハッキリとした信仰を持っていたことです。二人は、「主よ、ダビデの子よ」と叫んでいます。そのことばは、イエス様を来るべき救い主キリストであると認めていることばです。

そしてその信仰は、「主よ、目を開けていただきたいのです」との彼らの願いのことばになりました。二人の盲人は、イエス様が神の力を持った方(神そのもの)であることを信じていたのです。

そして、私たちが教えられるべきもう一つは、彼らがイエス様について行ったことです。これはその後「彼らが弟子としてイエス様につき従う者となった」ことを表しています。

その行動は、二人が受けた恵みの素晴らしさへの感謝から湧き起こされたものです。

その感謝は、一義的には目を開けていただいた感謝ですが、それを通して心の目も開かれ、「イエス様が救い主キリストである」との確信を与えられた喜びです。

私は、二人の盲人の行動から自分自身の信仰を振り返り、私はもっと心の目を開いていただき、イエス・キリストを更にハッキリと見させていただきたいと願います。

私たちの肉体の目は開いています。しかし心の目は、まだ見るべきものを見ていないのではないか。 主は、私たちがもっと素晴らしいものを見るように願っておられます。

もっと素晴らしいもの。それは、私たちのすぐ側に神の祝福を見ることです。神の祝福は私たちの周りに満ちています。それを見させていただくために、神に祈り求めようではありませんか。

「主よ、目を開けていただきたいのです」と。あなたの祈りの叫び声は、必ず主に届きます。

アーメン