<讃美歌>讃美歌271番「主は教会の 基となり」

<聖書日課>ヨハネ13章1~17節「主の祝福を手にする」

ヨハネの福音書の13~17章は、イエス様の惜別説教が記されている箇所です。それはイエス様の弟子たちへの遺言のような説教です。惜別説教は、ある家の2階の広間での最後の晩餐の席の中で語られました。

その惜別説教を語られる前に、イエス様は大切な教えを、身をもって弟子たちにお示しになりました。イエス様は、弟子たちの足を洗い始められたのです。

人の足を洗うことは屈辱的なことであり、奴隷の仕事です。たとい弟子であっても、自分たちの師(先生)の足を洗うことはありません。

それでペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください」と言っているのです。

そのようなことを言うペテロに、イエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と答えられました。

イエス様のこの行為は二つのことを象徴しています。 一つは、イエス様の十字架です。

足を洗うことは、汚れたものを清くすることです。その足と同じように、私たちの心も罪でけがれています。人は汚れを持ったままでは、決して神の国に入ることはできません。

私たちの罪は、十字架で流されたイエス・キリストの血によって洗われなければなりません。

もうすぐ、イエス様はすべての人の罪を贖うために十字架で血を流すことになります。そして、それを信じる者は天の御国に入れられるのです。

そのことを自分のこととして受け取らない者は、つまり、足を洗っていただくことを拒否する者は、決して天の御国に入ることはできず、イエス様とは ”何の関係もない者” となってしまいます。

もう一つは、クリスチャンどうしの助け合いです。主は、互いに相手を「自分よりも上だ」と思いなさいと言っておられます。

礼拝説教の中でも何度も話しておりますが、人は「私は他の人の上に立ちたい。偉くなりたい」と思います。しかし、本当に偉い方であるイエス様が、弟子たちの足を洗われたのです。

イエス様も「あなたがたに模範を示したのです」と言われています。教会とは、イエス・キリストをとして仰ぐ者たちの集まりです。

私たちは、イエス様のイエス様の模範に倣わなければなりません。そこに<神の愛>があるからです。

Ⅰヨハネ4章7, 8節に『私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。‥愛のない者に、 神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』と記されています。

信仰者も、一人ひとりは弱く小さな者です。互いに他の人の愛と助けを必要としています。

そして私たちは、他の人を助けるときに、自分も主にあって強くされるのです。

そのようにして、互いに相手を助け合うときに、あなたは主の祝福を自分のものとするのです。

八鹿教会の一人ひとりの上に、主の祝福が豊かでありますように、‥。 アーメン

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