2024年11月06日(水)

<讃美歌>讃美歌290番「ガリラヤの風」

<聖書日課>ヨハネ13章31~35節「主にあって、互いに愛し合う」

「互いに愛し合いなさい」。このことばは、イエス様の弟子たちへの遺言です。

今イスカリオテ・ユダが、イエス様を裏切るために最後の晩餐の席から外れ、ユダヤ人のもとへ向かいました。

イエス様はユダが出て行くのを見届けて、『今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました』と言われました。

イエス様が栄光を受けられるのは、十字架によって受けられるのです。そしてイエス様の十字架は、神のご計画でもあるので、父なる神はイエス様の十字架によって栄光を受けられるのです。

イエス様は、ご自分を裏切るためにその部屋を出て行くユダを黙って見送られました。それはイエス様が、全人類の罪を贖うために十字架に着くことの決意の現われです。

そしてこの後、残った11人の弟子たちに<告別説教>と呼ばれる話をされます。

その説教の最初でイエス様が言われたことが「あなたがたは互いに愛し合いなさい」とのことばです。このことばは、一義的には弟子たちに語られていますが、もちろん私たちにも語られているのです。

いま、八鹿教会は<互いに愛し合う教会>として主に仕えていることを感謝いたします。しかしながら、信仰者であっても互いに愛し合うことは、決してた易いことではありません。

なぜなら「互いに愛し合う」ことには、犠牲(時間的な犠牲、精神的な犠牲等)が伴うことも多いからです。

それでイエス様は、互いに愛し合うことに一つの条件を付けられました。「わたしがあなたがたを愛したように」がその条件です。

弟子たちは、「自分たちの中で誰が一番偉いか」とこの世的な栄光を求める者たちでした。そのような弟子たちを、イエス様は忍耐をもって愛してくださったのです。

私たちは同じクリスチャンであっても、性格も、経験も、賜物も違います。そのような者たちが、互いに愛し合うためには、互いに互いがイエス・キリストを信じる者であると認め合わなければならないのです。

ですから、イエス様が言われる「互いに愛し合う」ことは、クリスチャンでなければできないのです。

そのように、私たちが互いに愛し合う時に、主は私たちを祝福してくださり、すべての人々が、私たちの内に神の栄光を見るようにしてくださるのです。

これからも、八鹿教会の一人ひとりが、主の栄光を現すべく、「互いに愛し合う」者とされますように祈っております。

アーメン