2026年08月23日(日)
=あなたが主に頼って生きるために=
【要約】<旧約>出エジプト記6章1~13節
ファラオはなかなかイスラエルの民を去らせません。モーセは短絡的に結果を求め過ぎて落胆した。
私たちも同じような経験をします。周りの方々に福音を伝えても信じてもらえない。それで「あなたの民を一向に救い出されない」とつぶやく。
落胆するモーセに、主は決定的なことばを語られました。それが「わたしは主である」とのことばです。主は言われます『わたしは主である。わたしは、アブラハム/イサク/ヤコブに、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった』。
このことばは「ヤハウェという神の名が持つ<意味/力/本質>が、まったく新しい深さで啓示される段階に来た」という宣言です。
またそれは、「モーセが、ヤハウェの名が表す神の本質を、現実の歴史の中で体験する」ことです。 では<神の本質>とは何でしょうか。
族長たちは、主の約束が「歴史を動かす力として」成就する現実を見なかった。その現実を、神はモーセに見せると言われた。つまり「歴史を動かすような救いを成就することが、ヤハウェなる神の本質だ」と言われるのです。
主なる神ヤハウェは、ご自分の民を奴隷から解放する圧倒的な主権、エジプトを打ち倒す圧倒的な力、契約を歴史の中で成就する忠実さを教えることによって、ご自身の本質を示そうとされました。
また出エジプトを通して、主はご自身の本質を人々に示そうとされました。
・神は歴史を動かされること。 ・神は民を救われること。 ・神は契約に忠実であること。
そのことを示されたのが『わたしは主である』との力強いことばです。 『わたしは主である』。このことばは、私たちにとっても力強い神の宣言です。
では、現代の私たちには<神の本質>はどのように示されたのでしょうか。主は、イエス・キリストの十字架を通してご自身の本質を明らかにされました。
・モーセは「どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか」(出エジプト6章30節)と不満を言いましたが、イエス様は十字架を指して「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」(ヨハネ12章27節)と語られました。
・モーセは“不完全な羊飼い”でしたが、イエス様は「良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」と言われた“完全な羊飼い”でした。
つまり私たちが神の本質を知るうえで、モーセは“影”でありイエス・キリストが“実体”です。 また『わたしは主である』との神のことばは、イエス・キリストの十字架によって、その意味が完全に明らかにされました。
・神は契約を守られる。私たちは天の御国を相続します。 ・神は人を罪の奴隷から救い出される。主は罪の奴隷としてもがいていた私たちを“罪の束縛”から解放してくだった。
・神は死を打ち破られる。イエス・キリストの復活は、私たちも永遠の死から永遠のいのちに移されていることの保証です。
・神は新しい民(教会)を形成される。主は私たちを罪の滅びから救い出し、全世界に送り出して新しい民(教会)を形成されました。 それが現代における「わたしは主である」の意味です。
そうであるなら「わたしは主である」とのことばは、あなたの心に「あなたは私を罪の奴隷から解放するために、ひとり子イエス様を十字架につけてくださいました」との感謝の想いを響かせないでしょうか。
またそのことばは、私たちの信仰生活の中にも響きわたらないでしょうか。
・あなたの家庭の中に病や経済的な不安がある時、そのことばは「忍耐をもって、わたしに頼りなさい」との響きをもって迫ってこないでしょうか。
・あなたが世の誘惑と向き合っている時、そのことばは『まず神の国と神の義を求めなさい』(マタイ5章33節)と教えないでしょうか。
・あなたが年をとって「もう私は何もできない」と悲しむ時、そのことばは『わたしの目には、あなたは高価で尊い』(イザヤ43章4節)とのことばとなって、あなたを励まさないでしょうか。
・そしてあなたが、何か責めを負って苦しんでいる時、そのことばは『わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない』(イザヤ43章25節)とのことばに変わり、あなたにイエス・キリストを思い起こさせるのです。
『わたしは主である』。このことばは、今日もあなたに迫り、あなたを主にある忠実なしもべとして導き続けています。