2026年07月12日(日)
=あなたがキリストの愛に生きるために=
【要約】<旧約>創世記44章1~5, 14~34節
神の愛に触れた者は、他の者の罪を赦します。ヨセフは、兄たちの罪を赦した。 ヨセフは、兄たちにもっと自分に頼って欲しかった。同じように、主はあなたに「もっとご自分に頼るように」願っておられます。
天の御国の倉庫には“愛”が満ち溢れています。主はあなたに、無尽蔵の愛を分け与えたいと願っておられるのです。その神の愛は、後に救い主キリストの形をとって私たちに示されました。ここにもキリストの型としてのヨセフを見出します。
さて今ヨセフの杯はベニヤミンの袋から見つかりました。兄弟たちはただ、顔を地に伏せることしかできなかった。その時ユダは、ヨセフに言います。『神がしもべどもの咎を暴かれたのです』。今ユダは、20年前の罪を神の前に告白して悔い改め、神の憐れみにすがって頭を下げている。「主よ、どうかこの哀れなしもべの罪をお赦しください。 ユダは目の前の権力者に語ります。・年老いた父は、ベニヤミンを愛していること。・今回は、父を説得してベニヤミンを連れて来たこと。
ユダはヨセフを失ったときのヤコブの悲しむ顔をよく覚えている。今ベニヤミンまでもが取り上げられようとしている。それにユダは「私が必ずベニヤミンを連れて帰ります」と言って保証人になっていたのです。
「もうこれ以上、父の悲しむ顔を見たくない」。ユダの率直な思いです。 それでユダは、身代わりに奴隷となると申し出たのです。そして、ここにキリストの十字架の身代わりの死の影が落ちています。
ユダは、父ヤコブのベニヤミンへの愛ゆえに、ベニヤミンの罪を身に負って自分自身を差し出しました。これは“キリストの影”です。
すべての人には罪があるために、人が人に対して“本物の愛”を示すことはできません。しかし “影”であったとしてもユダの愛は尊い。 ユダの愛は影であり、本物の愛は後から現れます。イエス・キリストの愛です。
・ユダは罪人でしたが、イエス・キリストはまったき人であり罪がありません。
・ユダは「奴隷として残る」と申し出ましたが、イエス・キリストは十字架で死ぬ道を選ばれました。
・ユダは「父を悲しませたくない」と願いましたが、イエス・キリストは「父なる神の愛を完成するために」十字架に向かわれました。
ユダは、自分は罪ある者となってベニヤミンの保証人となると言っています。でもイエス・キリストは、私の罪のための保証人として、実際に十字架で血を流し、父なる神と私との間の仲保者となってくださいました。
イエス・キリストは、全人類の罪を十字架上で贖ってくださいましたが、私にとっては、私一人のための唯一の救い主です。私にとってイエス様は、私の名前を呼びながら十字架へと向かってくださった救い主です。
私の罪の袋が開けられ、過去の罪があらわにされ、私が何の弁明もできずただひれ伏して沈黙するしかないとき、イエス様は父なる神に言ってくださいました。「その者を罰しないでください。わたしが身代わりとなります」と。
そうしてイエス様は、私が受けるべき罪のむちを受け、私が運ぶべき罪の十字架を背負ってくださり、私が流すべき罪の代価の血を十字架の上で流してくださった。
預言者イザヤは言います。『さあ、来たれ。論じ合おう。たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる』。(イザヤ1章18節)
イエス・キリストのところに行く。それはイエス・キリストを、あなたの心の中心に迎え入れることです。
・キリストの愛を知る者は、もう自分の罪を隠す必要はありません。 ・キリストの愛を知る者は、罪が赦されていることに感謝して生きるのです。
・キリストの愛を知る者は、他の人の罪や無礼を許す力が与えられます。 ・キリストの愛を知る者は、誰かの重荷を負い、誰かのために時間を割いて祈り、誰かの痛みを自分の痛みとして受け止めるのです。
そのような信仰者の姿が、ユダの愛を通して私たちが教えられる<キリストの愛>なのです。