2026年06月21日(日)
=あなたが忍耐をもって信仰を働かせるために=
【要約】<旧約>創世記40章1~23節
主に用いられる者は大きな祝福を受けます。しかしながら最初から主に用いられるに値する者は誰もおりません。人が<主の器>として用いられるためには、徹底的に変えられなければなりません。それで主の御手が直接ヨセフに伸びました。
献酌官と料理官がヨセフと同じ監獄に入れられて来ました。彼らは同じ夜に夢を見てヨセフがその夢を説き明かしました。その解き明かしどおりに献酌官は元の地位に戻されました。
ヨセフは献酌官にねがいました。『あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください』。しかし献酌官は、ヨセフのことを忘れてしまった。
ヨセフは「神は私から御顔を隠された」と思ったでしょう。信仰者にとって、神の顔が見えないことほど辛いことはありません。 そこに<主の想い>がありました。
主は献酌官に「ヨセフのことを忘れさせる」ことで、ヨセフを“人間の助け”ではなく“神の助け”に頼る者へと変えようとされたのです。
主はヨセフを忘れられたのではありません。ヨセフの流す涙の一つ一つをも見ておられます。詩篇56篇8節に『どうか私の涙を、あなたの皮袋に蓄えてください』と書かれています。
主は、冷たくご自身の計画を進められる方ではなく、涙を数えるほどに私たちに寄り添ってくださる方です。
主は“ヨセフの今の願い”よりも“ヨセフの将来”を優先され、ヨセフが徹底的にご自身に頼るように導かれたのです。
ヨセフは“人の力”で監獄から出て“地上の小さな幸せ”を願いました。それはヨセフ一人の幸せです。ところが、主はヨセフに働きかけ、ご自身に頼らせて“神の力”を教え、ヨセフをもっと高く上げる計画をもっておられたのです。
それはヨセフ一人ではなく、父ヤコブや兄弟たちを飢饉から助けだす計画であり、罪のために捕らわれている全人類を、“神の力”によって悪の監獄から救い出す計画です。
主はヨセフを苦しめるために沈黙されたのではありません。ヨセフを愛しているから沈黙を続けられたのです。それはヨセフが“人間の助け”ではなく“神の助け”に根を下ろす者とされるためだったのです。
主の沈黙は“深い愛のしるし”です。 ヨセフは兄たちによって苦しみを受け、奴隷の身となり、監獄に入れられ罪人と同じ身分に置かれました。しかし主は、ヨセフを高く引き上げ、多くの者を救い出す者とされました。
同じようにイエス・キリストは、ご自分を低くされ、罪人と同じ身分にまで下られ、十字架に上げられ、全人類を罪の滅びから救われました。 ヨセフはキリストの型です。
私たちもヨセフと同じように“神に選ばれた者”です。主はあなたを“主の器”としてつくり変えて用いようとされます。
今あなたは、どこかで待たされているでしょうか。肉体的な弱さから抜け出せない。経済的な困難が続いている。家庭の中が乱れている。もっと主に用いていただきたいがどうしてよいか分からない。
祈っても、祈っても、応えは見えてこない。今、主はあなたに「待ちなさい」と言っておられる。
それは主があなたを愛しておられるからです。愛しているから、今のあなたの“小さな益”よりも“人生全体の祝福”を願っておられるので、主はあなたを整えようとして待たせておられるのです。
神の時を待つとは、「神の愛を疑わない」ことです。“神の時を待つ信仰”とは、何もしないことではなく、“神の愛を信じ続ける姿勢”です。
状況が悪いように思えても、祈りの応えが見えなくても、人に裏切られても、小さな希望が消えてしまっても、「それでも主は私を愛してくださっている」と信じ続けることです。
ヨセフがそうであったように、主はあなたをも<キリストの型>として用いようとされています。 今あなたが、病/家庭内の不和/孤独や将来の不安の中にあっても、そこに主がおられないのではありません。
そのところこそ、神の愛が深く働く場所であり、そこで主は、あなたをつくり変えようとされているのです。
すべてのことが思い通りになるのが神の愛ではありません。 神の愛は、あなたをキリストに似る者としてつくり変えようとします。
そのため私たちは「主に頼る信仰」に活かされねばなりません。それがまさに「神の時を待つ信仰者の姿」なのです。