2026年05月10日(日)

=主に用いられる者となるために=

【要約】<旧約聖書>創世記27138

なぜイサクは、年老いて目が良く見えなくなるまで子どもを祝福できなかったのか。イサクの家庭が問題だらけの家庭だったからです。

イサクの家庭においての最も深刻な問題であったのは、夫婦の間に一致がなかったことです。イサクは、主がヤコブを選ばれたことを知っています。リベカがヤコブを愛していることも知っています。

そのような中でエサウを秘かに呼んで「祝福するから料理を作ってくれ」と言ったのです。それはイサクが、神の想いよりも自分の願いを優先しようとしたからです。

一方リベカは、そのようなイサクをだまして、ヤコブが祝福を受けられるように策略しました。リベカは、そこで主に祈るべきではなかったでしょうか。そしてヤコブはエサウに変装して祝福を奪い取ったのです。

このイサクの家庭に起きた悲劇的な事件は、彼らの弱さゆえに起きたのです。弱さとは、神に頼らず、自分の力で何とかしようとする傾向です。

ではイサクとリベカが、それ程までにこだわった“祝福”とは何でしょうか。祝福とは「神との関係」です。神との関係が強ければ強いほど、より多くの恵みが与えられます。

祝福とは、アブラハム契約の継承者とされること、神の臨在と導きを感じること、神の民としての身分が与えられること、神のご計画の中に置かれることです。

つまり祝福とは、神との関係に根ざした<存在の状態>です。ヤコブはエサウを騙して祝福を奪いましたが、彼が奪ったものは“物質的な成功”ではなく、神の物語の中に生きるという特権だったのです。

では、今の私たちにとっての“主の祝福”とは何でしょうか。私たちにとっての祝福。それは「神に知られ、神に導かれ、神の御心の中に置かれ、神の愛の中に生きる」という“神との親密さ”そのものです。

私たちは自分の生活の中で、どれほど“主”を見出すことができるでしょうか。どれだけ祈っているか。どれだけみことばに触れているか。どれだけ他の信仰者と交わっているか。

それらのことは、あなたが日常生活の中で、どれほど「主を身近に」感じているかによるのです。祝福は、あなたの神への忠実さによるのではなく“神の側の忠実さ”に基づきます。

イサクの家族を見ると弱さのオンパレードです。しかし主のご計画は、そのような家庭を通して進められたのです。主のご計画は、人の弱さを超えて働くからです。

では、人は弱いままでよいのでしょうか。「主のご計画は、人の弱さを超えて働きます」が、それが意味するものは、「人は自分の弱さを知らなければならない。そして自分の弱さを認めた上で、変えられねばならない」ということです。

そこから言える結論は、「主は弱さを超えて働かれる。しかし、その恵みを深く味わうのは、自分の弱さを主の前に差し出す者である」との事実です。

私たちは弱い者です。しかし主は私たちに「弱いままでよい」と言っておられるのではありません。「弱いままで、わたしのもとに来なさい」と言われているのです。

主は、ご自分のもとに来た弱い者を造り変えて、ご自身の栄光を現す者とされるのです。それが「弱さを超えて働く神のみわざ」です。

主の主権は、私たちの弱さを超えて働きます。しかし、その主権の恵みを最も深く味わうのは、自分の弱さを知り、神にすがる者なのです。

「弱さを持ったまま、主のみもとに近づこうではありませんか。主は弱さを超えて働いてくださり、あなたを<主にあって強い者>とつくり変えてくださいます。」