2026年04月12日(日)
=あなたが喜んで信仰生活を過ごすために=
【要約】<福音書>ルカ24章13~49節
クレオパ夫妻はエルサレムからエマオへと歩き出しました。彼らもイエス様を救い主メシアだと信じていました。でも彼らのメシア観は間違っていた。
だから、十字架は彼らを打ちのめした。それで二人は絶望のうちにエルサレムを後にしました。間違ったメシア観を持つ者は、イエス・キリストを見ることができません。
その時、彼らの心は暗く、足取りは重かった。そのような彼らにイエス様の方から近づいてくださった。悲しみや苦しみは、その者から神をさえぎることがあります。
しかし主は、決してあなたを見捨てられない。それでイエス様は、二人に「ご自分について聖書全体に書いてあることを説き明かされ」ました。彼らは「もっと聞きたい」と願って、イエス様に家に泊まるように勧めました。
そこはクレオパの家です。食卓について、パンを裂いて人に渡すのはクレオパの役目です。でもそこで主導権をとったのはイエス様です。
なぜイエス様が主導権を取られたのか。クレオパ夫婦の心の目が開かれるためです。心の目が開かれるとは、自分にとってイエス・キリストが誰なのかが分かることです。
この時、イエス様は食卓のパンを取り、裂いて彼らに渡されました。それによって彼らの目が開かれ、その男性がイエス様だと気が付いたのです。その瞬間、彼らはイエス様が復活されたことを理解しました。
最初から、イエス様が罪からの救い主だと知っている者は誰もいません。でも人は、自分の努力で心の目を開けることはできません。
それは、神の一方的な憐れみによって選ばれた者だけへの“神の恵”です。人は、神の側で憐れんで導いてくださった時に初めて、イエス・キリストが「私にとって誰なのか」が分かるのです。
ただ彼らは何もしなかったのではありません。イエス様の語る聖書のみことばを真剣に聞いたのです。それで彼らは、心が内に燃やされました。
ですから信仰生活は「頑張って主を感じる」ことではなく「主の導きに気づく歩み」です。それは、常にみことばを大切にする歩みであり、他のクリスチャンとの交わりを大切にすることであり、祈りを欠かさないことでもあります。
そして主の導きに気が付かされた心は<内に燃やされ>、その者は喜んでイエス・キリストに従う者へと変えられるのです。
復活されたイエス様は、クレオパ夫妻の目の前から消えられた。しかし彼らは、心の目でしっかりと復活のイエス・キリストを見続けていました。
彼らの心は喜びで満たされた。イエス様が復活されたことは、彼らも復活する確かな証拠です。だから彼らは、すぐに引き返してエルサレムへと向かったのです。
復活のイエス・キリストに出会った喜びを、自分たちだけの心の内にしまい込んでおくことは到底できなかったからです。
クレオパ夫妻は、エルサレムへの道を急ぎました。もう暗い夜道です。でも彼らの心は明るかった。彼らの足取りは軽かった。彼らの心が内に燃やされていたからです。
内に燃やされた心は、復活のイエス・キリストを語り出すのです。
クレオパ夫妻は他の弟子たちに興奮して話したでしょう。イエス様の方から自分たちに近づいて来てくださったこと。聖書の中で救い主について書いてある箇所について語ってくださったこと。
食卓に着いてパンを裂かれた時に、その方が復活されたイエス様だと分かったこと。またその瞬間、イエス様の姿が見えなくなったことを興奮して話したのです。
そして弟子たちは、クレオパ夫妻が“心が内に燃やされて”喜んでいる姿を目撃しました。 そのクレオパ夫妻の姿は、復活の希望(永遠のいのち)を宣べ伝える弟子の姿そのものです。
そして復活の主は言われます。『その名(イエスの名)によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。『あなたがたは、これらのことの証人となります』と。
・私たちは、イエス・キリストの十字架の血によって、すべての罪が赦されたことを感謝しています。
・私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活の事実を知っています。
私たちこそイエス・キリストの証人として、世に遣わされる弟子たちです。そのために、私たちこそ心が内に燃やされねばならないのです。
聖書のみことばがあなたに向かって語られ、イエス様がともに歩いてくださっていると気づいたとき、あなたの心は内に燃やされ、これからの信仰者としての歩みは、喜びに満ちたものへと変えられるのです。