2026年02月15日(日)
=あなたがより多くの祝福を受けるために=
【要約】<旧約聖書>創世記12章1~9節 & 13章1~18節
神と人との関係において、主導権を握っておられるのは常に神です。主は、あなたに良いものを与えようと願っておられます。人にとってもっとも良いものは「永遠のいのち」です。
私たちは、すでにその祝福を得ています。でも主は、あなたをもっと祝福したいと願っておられます。それはあなたが、この世にあって信仰者としてさらに恵まれるためにです。
アブラハム契約は一義的にはアブラム自身に対する祝福の約束ですが、パウロは「アブラハム契約の中心はキリストである」と語っています。ですから「キリストを通して諸国民が祝福される」と言うのが新約の解釈です。
それで主の祝福を受けて、アブラムがしたことは「祭壇を築くこと」と「祈ること」です。 祭壇を築くとは三つの意味を持ちます。
それは、祭壇は“神へのいけにえをささげる場所”であり、“神の臨在を認める場所”であり、“神の約束に対する応答”であることです。アブラムは祭壇を築くことで神に応答したのです。それは彼の“信仰の応答”です。
また主の御名を呼び求めることは<神を畏れかしこむ>表現です。ここで私たちが教えられるべき大きなテーマの一つは、「信仰生活とは、常に神を畏れかしこむ生活である」ということです。
そして私たちは、アブラムの神を畏れかしこむ姿勢から、また三つのことを教えられます。
一つ目は「神の約束は、信仰による応答を求める」こと、二つ目は「信仰者の歩みは“祭壇と祈り”によって支えられる」ことです。
アブラムにとっては、神の語りかけに対して「身をささげる応答」そのものが“祭壇を築く”ことでした。 それでみことばは私たちに問いかけます。「あなたは祭壇を築いているか」と。
私たちにとっての“祭壇”=神の語りかけに対する応答=とは何でしょうか。
それは①神の前に静まる時間であり、 ②みことばに応答する祈りであり、 ③神の臨在を認める生活であり、 ④自分の思いを手放して、神に委ねる心です。
そして三つ目は、「祝福は“神との関係”の中で受け取るもの」ということです。アブラムは祝福を追い求めたのではなく、神を追い求めたのです。その結果、祝福が与えられました。
私たちは、余りにも短絡的に神の祝福を求め過ぎてはいないでしょうか。 “短絡的に”とは、「私と神との関係をそっちのけにして」ということです。
私たちは、自分の信仰生活を神の前に“あからさま”にされた時、ただ泣き崩れることしかできないのではないか。
それで私たちには、もう一つの課題が突き付けられます。「どうすれば私は<神との関係>を深めることができるのか」です。
私たちの救い主、主イエス・キリストのゆえに感謝します。アブラムの祭壇はキリストの十字架の型だからです。アブラムの祭壇の三つに意味を総合して考えますと、「祭壇とは神の前に自分をささげる場所」だということです。
また旧約の祭壇でささげられる動物の血は、その時限りの不完全なものであり繰り返しささげられましたが、新約の時代になって、イエス・キリストは一回限りの完全なささげものとしてご自身の血をささげてくださったのです。
その意味で、旧約のいけにえはすべて「影」であり、本体は「イエス・キリスト」です。イエス・キリストが完全ないけにえとして十字架で血を流してくださった。
ですから新しい契約に生きる私たちは、イエス・キリストの十字架によって神からの祝福を確信するのです。ですから、私たちに与えられた課題「どうすれば<神との関係>を深めることができるのか」の答はイエス・キリストです。
人はイエス・キリストを知ることによって<神との関係を深める>のです。そしてイエス・キリストをより深く知ることによって、私たちの内に「すべてを神に委ねる信仰」が確かなものとされるのです。
全知全能の神の祝福の約束ほど、私たちに平安を与えるものはありません。
私たちは、自分の力で性急に問題を解決しようとしますが、まずなりよりも心しなければならないことは、キリストによって<神と私の関係>をより深いものとして改善することです。
そうする時に、私たちは<神の祝福への応答としての信仰>をより堅固なものとして成長させていただくのです。