2026年01月18日(日)

=深い神の愛に感謝するために=

【説教要約】<旧約聖書>創世記4116

カインはありきたりの物を主にささげ、アベルは、自分が持っているものの中で、最高の物を主にささげた。神はささげものを通して、二人の心を見られました。

カインとアベルのささげものは、単なる“ささげものの質”の問題ではなく、ささげる者の“神への畏れと信頼”の問題です。<信仰の問題>です。

カインは、ただ収穫物の一部を持って来ただけです。そこには、神への感謝の心は見えません。つまり、神が見られたのは「信仰」です

信仰とは<あなたと神との関係>です。「あなたは、神がどれほど近くに居てくださるか知っているか」と問われているのです。

私たちは、今日のテキストからいくつかのポイントについて教えられます。

一つ目は、礼拝は神との関係から生まれることです。私たちは、礼拝を感謝をもってささげているでしょうか。それとも、カインのように義務的な思いで席に座っているだけですか。献金や奉仕も同じです。

それらは、あなたと神との関係性から、その応答として生まれて来るものです。神との関係性がより強く/より深くなったとき、あなたが受ける恵みは大きい。

二つ目は、神は人の心の状態を警告され、悔い改めの道を開いておられることです。

神は、カインに警告されます。『もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる』と。神の叱責のことばは“恵みのことば”でもあります。

三つ目は、罪は“心の中の小さなズレ”から始まり、やがて破壊的な行動へと成長することです。

カインの心のズレは、神への献げものは「ごくありきたりな物でも構わない」と思ったところから始まりました。その小さなズレがやがて大きなズレとなり、人類最初の殺人事件が起きたのです。

そのため私たちは、自分の心がどれほど神と一つになっているかをいつも確認しなければなりません。信仰生活の見直しは、小さな心のズレを放置しないための霊的な習慣です。

信仰者は、心の中の小さな悪を放置しておくと、それよりも少し大きな悪を見逃すようになり、気が付いた時にはまったく悪に染まっている。

それで神はカインに言われます。『あなたの弟アベルは、どこにいるのか』と。

そのことばで神は、罪人であるカインに=それは私たちでもあるのですが=罪を告白して悔い改める機会を与えられたのです。でもカインは答えます。『私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか』と。

カインは、自分の犯した罪の大きさを自覚せず、「私は神のさばきから逃れられる」と考えた。誰も神のさばきの手から逃れられる者はいません。

それで神は言われます『あなたの弟の血が、わたしに向かって叫んでいる』と。アベルの血の叫び声は、カインが犯した罪の大きさを知らせる声です。それでカインは叫びます。『私の咎は大きすぎて、負いきれません』と。

アベルの血の叫びは、今も聖書の中から響いています。「あなたの罪は大きい」と。それであなたは「私の咎は大きすぎて、負いきれません」と叫ぶ以外にありません。

しかしそのあなたの声は、罪の重さを自覚した人間の叫びの声として神に届くのです。そこに“福音の必要性”が浮かび上がってきます。

人はだれ一人として、自分の罪の重荷を自分で負うことができません。そのため<イエス・キリストの十字架の血>が必要になって来るのです。

「私の咎は大きすぎて、負いきれません」。実にこのことばは「人間の罪を負ってくださる方(キリスト)が現れる」との預言的なつながりを示しています。

今日のことばは、アベルの血とキリストの十字架上の血が対比されています。

アベルの血の叫びは「人の罪の現実を暴く声」であり、イエス・キリストの血の叫びは「人の罪を赦す声」です。アベルの血が罪を訴えるのなら、その訴えに応答するのがキリストの血なのです。

またカインは罪を指摘された時、神の前から去ろうとします。その姿には、罪の悔い改めは見られません。でも神は、一方的に憐れんでカインに一つのしるしをつけられました。

そこに憐れみ深い神の愛が示されています。

私たちも自分では到底負いきれない罪を抱えています。私たちは“永遠の滅び”に定められても仕方のない者だったのです。

しかし神は、一方的に私たちを憐れんでくださって、永遠の滅びに至らないように、一つのしるしを与えてくださいました。そのしるしがイエス・キリストの十字架の血です。

私たちは叫びます。「私の罪の代償は大きすぎて担えません」。神はあなたの祈りを聞いてくださり、イエス・キリストを<負いきれない罪の代償>として十字架につけて血を流してくださいました。

イエス様が、あなたの罪の重荷を十字架上ですべて負ってくださり、それによってすべての人に天の御国への道が開かれたのです。