2025年11月09日(日)
=あなたが永遠の神に感謝するために=
【要約】<福音書>ルカの福音書20章27~40節
サドカイ人が、イエス様に非現実的な話を持ち掛けました。7人の兄弟とそのすべての兄弟たちの妻となった女性の話です。実に無意味な論争です。
ある牧師は、このような現実離れした話を持ち出して、神の国について議論する信仰を“退屈な信仰”と呼びました。私たちも、無意味に時間を費やして退屈な信仰に陥っていないか、時々自分を吟味することも必要です。
イエス・キリストを信じて生きるということは、退屈しないということです。毎日が信仰の喜びで、ワクワクして活かされるのです。
人は、常に神と親しく交わり、神をほめたたえる存在として造られました。神は永遠にほめたたえられるべき方です。でも地上において、一人の人が神をほめたたえられる期間は限られています。
またイエス様は、36節で「天の御国に入った者は、御使いのようである」と言われます。それは天の御国に入った時、人は御使いそのものになるのではなく、性質が一部、天使と似ている者になるとの意味です。
死ぬことはありません。神と直接的に交わります。天の御国では、人は常に神を賛美し、神をほめたたえる存在として神に仕えるのです。
イエス様は、そのような者を「復活の子として神の子なのです」と言っておられます。それは、肉の支配(言い換えれば、死の支配)から解放され、神の聖さに与り、永遠の存在として神と親しく交わる者になることです。
さて、そのようなサドカイ人に、イエス様は『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です』と言われています。
ここに、イエス様が言わんとされた事がまとめられています。「自分たちは神の選民だ」と誇るユダヤ人たちは、実は、生きている真の神に捕らえられて生きる信仰生活を拒否していたのです。
パリサイ人は律法を守ることに一所懸命であり、神の愛に背を向けて生きている。復活を否定するサドカイ人は、永遠のいのちの希望に生きようとしない。
何故イエス様が、あの十字架の苦しみ、あの痛みを背負わなければならなかったのか。
それは、生ける神によって選ばれていたはずの神の民ユダヤ人ですら、もはや真の神のみこころに従って生きることを望んでいなかったからです。その方が彼らにとって生き易く都合がよかったのです。
ここで私たちは、自分自身に問わなければなりません。「私は、自分にとって都合の良い退屈な信仰に生きていないか」と。私たちは、イエス・キリストを罪からの救い主として信じているので天国は保証されている。
だから苦労してまで、主の福音を一人でも多くの人に伝えようとは思わない。奉仕も積極的にしようとは思わない。献金も適当にささげておけばそれでよいと思っている。
もしあなたの信仰生活がそのようなものであるなら、あなたは、生きて働いてくださっている神をもう一度見直さなければなりません。 私たちもいつかは地上の死を迎えますが、神の前では、地上の死は死ではありません。
人にとって“まことの死”とは、神と関係なく生きることです。ですから地上で生きていても、神を無視して生きる人は、神の目から見れば死んでいるのです。
ですから、罪によって死んでいた私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって罪が赦され、神の前に生きる者とされたのです。だから、この地上で死を迎えても天の御国で生きるのです。
信仰者にとっての肉体の死は、地上の生と天国の生との境界線でしかありません。実に永遠の昔から永遠の未来に至るまで、神は私の神なのです。
そして人がクリスチャンになることは、もはや死なないいのちが与えられるとともに、その死なないいのちをもって神に仕えることを、何よりも喜びとする者になるということなのです。
私たちが信仰を持たないうちは、“イエス”は私たちにとって単なる名前でしかありません。しかし、それが信仰の働きによる時、イエス様は私たちの意識において現実の人格となられ、私たちの上に“神の力”を働かせてくださるのです。
もし私たちの内に、自分勝手な“退屈な信仰”を見出すなら、私たちはイエス様のことばを思い巡らすべきです。『神にとっては、すべての者が生きている』。
私たちの周りにも、真の神を知らない人が多くおられますが、私たち自身は「神にとっては、すべての者が生きている」とのことばを心に刻み、喜んで主に仕えなくてはなりません。
そのようなあなたを見て、また一人どこかで<神に生きる者>が起こされるのです。それが、私たちキリスト者が真実に生きる道なのです。