2025年11月02日(日)
=心豊かな信仰生活を過ごすために=
【要約】<福音書>ルカの福音書19章1~10節
取税人は他の人々から見れば“裏切者”であり、宗教的には罪人でした。それをよく分かった上で、ザアカイは取税人になりました。
ザアカイは金持ちになり、大きな家にも住んでいる。でも何か空しい。人々からは罪人と同じように見られている。それは割り切ったつもりでした。
でもザアカイ自身も気づかないうちに、彼の心の内に何か物足りなさが芽生えていたのです。
ものをどれほど豊かに持っていても、持ち物がその人の心を豊かにすることはありません。人の心には、神以外の何ものをもってしても埋めることのできない空虚な空間があります。
ザアカイの心の内にも、少しずつ空虚な空間が広がっていたのです。
ザアカイはちょっと興味を持って、イエス様を見るために通りに出ました。でも、ザアカイはイエス様を見れませんでした。イエス様の周りには人がいっぱいでした。
おまけにザアカイは背が低く、ちょっと飛び上がっても見れない。イエス様を取り囲んでいる人々も、きっとザアカイにイエス様を見せまいとしたことでしょう。
でもイエス様は、ザアカイをずっと見ておられた。ザアカイが取税人になった時も、ザアカイが取税人のトップになった時も、心にちょっと虚しさが芽生えて来た時も、イエス様はザアカイを見ておられました。
そして今、ザアカイがご自分を見るために出てきていることも知っておられます。ザアカイはイエス様にちょっと興味を持っただけでした。
でもイエス様方は、深い関心をもってザアカイを、心の中まで見ておられました。それでイエス様は、ザアカイをご自分のもとに招こうとされたのです。
ザアカイは、前方にいちじく桑の木を見つけ、先回りしてその木に登ってイエス様が来るのを待ったのです。ザアカイは、木の上に身を潜めてイエス様を待ちました。
その木の下にやって来られた時、イエス様は上を向いてザアカイに声をかけられました。『ザアカイ、急いで降りて来なさい』。これは神の“愛のことば”です。
神の愛のことばは、それを聞く者の心に響きわたり、その者を神のもとに導くのです。イエス様のこの一言で、その後のザアカイの人生が決まりました。
その時まで、ザアカイは取税人仲間以外の人から話しかけられたことはなかった。だからザアカイは感激したのです。
神は、人を呼ばれるときは、常に個人的に呼び出されます。信仰は、神と人との個人的な関係だからです。
またイエス様は言われます。「急いで降りて来なさい」。 主に呼び出された者は、“急いで”従わなければなりません。主は、あなたが<個人的に、すぐに>従うことを願っておられます。
遅れた従順は不従順の別名であり、条件付きの信仰は不信仰の別名です。
イエス様は、絶妙のタイミングでザアカイに呼びかけられ、ザアカイは“すぐに”その声に従ったのです。
私は思います。イエス様にその心を触れていただいた者は、すぐに従う意外に道はありません。大切なのは、主の声を聞き逃さないことです。
またイエス様は言われます。『わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている』と。
イエス様は、ザアカイの家に客人として泊まられましたが、同時にこの時からイエス様は、ザアカイの心の中に“主人”として留まってくださったのです。
イエス様を<罪からの救い主>と信じることは、神の前に自分の罪を認めることです。ザアカイはイエス様の聖さに触れて、自分の罪深さに気がつきました。
ザアカイは、イエス様に声をかけられたときに分かったのです。「この方は正しい方だ」と。だからザアカイは、イエス様に向かってつぶやく人々に我慢ならなかった。
だからザアカイは立ち上がったのです。ザアカイは、イエス様が神の愛をもって自分の大きな罪を赦す権威を持っておられる方であると信じて、立ち上がったのです。
そうしてザアカイは、それまでの自分の罪を大胆に告白しました。主の前に罪を告白した者は、罪の束縛から解放されます。ザアカイは、罪の赦しを大変感謝しました。
ザアカイは、人々のイエス様への不満の声に逆らって立ち上がりました。ザアカイの立ち上がりは、罪が赦された確信に基づく信仰の現われなのです。
そのようなザアカイに、イエス様は宣言されました。『今日、救いがこの家に来ました』。救いとは<神との関係の回復>です。ザアカイは、罪によって断たれていた神との関係を信仰によって回復されたのです。
私たちも信仰によって神との関係を回復していただいた者たちです。そうであるなら、私たちはもっと喜ぼうではありませんか。なぜなら、救いがあなたの心に届いているからです。
イエス様は言われます。『人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです』。主は今も、第二/第三のザアカイを捜しておられます。
あなたが喜んでいる姿を見て、また誰かがザアカイのように、イエス様のもとに導かれますように心より願っております。それが、神から<心の豊かさ>を与えられた信仰者の生き方ではないでしょうか。