 
	2025年10月29日(水)
<讃美歌>讃美歌307番「まぶねの中に」
<聖書日課>マタイの福音書21章28~32節「悔い改めの実」
イエス様は32節でこのように言っておられます。「あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです」と。
あなたがたとは、23節を見ると、祭司長や長老たちであることが分かります。ここでイエス様は、祭司長や長老たちに、自分たちの罪を悔い改めることを求めておられます。
このたとえ話では、父親の「ぶどう園に行って働いてくれ」との願いに、兄息子は「行きたくありません」と拒否しましたが、思い直してぶどう園に出かけて行きました。弟息子は「行きます」と答えましたが、結果的に行きませんでした。
兄息子は取税人や遊女たちを、弟息子は祭司長や長老たちを表していることは明白です。でも一般的には、兄息子を祭司長たちに、弟息子を取税人たちに置き換えないでしょうか。
このたとえ話でイエス様は、敢えて兄と弟を入れ替えることによって表面的な信仰よりも、自分の罪を見つめて悔い改めることを喜ばれる<神の前の逆転現象>を語っておられます。
祭司長たちは、地上では偉そうにして「自分たちは律法を守っているので当然天の御国へ入る」と思っています、しかしながら、取税人たちは「そのままでは天国に入れない」と知っているので、罪を悔い改めたのです。
イエス様は、取税人のように、自分の罪を認めて神の前に罪を悔い改めることを求めておられます。 「罪を悔い改める」。それは、私たちが自分の無力さを知って、神により頼み天の御国へ入れていただくことです。
ともすれば人は、祭司長たちのように自分の行動(信仰歴の長さ、奉仕、学歴)を誇り、他の人を見下すような言動を繰り返してしまいます。
主が、あなたに求めておられるのは、あなたの内には天の御国に値するものは何もないことを知って、主の憐れみにすがることです。それが、主があなたに求められる”悔い改めの実”なのです。
主の憐れみは、イエス・キリストの十字架にハッキリと現わされています。主が求められる悔い改めの実。それはイエス・キリストの十字架が自分の罪のためであることを知り、主に感謝することなのです。
これからの皆様方の信仰生活が、主の憐れみに頼るものでありますように願っております。
アーメン
 
