2025年09月21日(日)

=あなたが与えられた賜物を賢く用いるために=

【説教要旨】<福音書>ルカの福音書16113

<不正な管理人>のたとえ話のおもな登場人物は、主人と管理人の二人です。管理人は不正な管理人です。主人の財産を無駄に使っていました。

それで、管理の仕事を取り上げられる前に、主人から負債のある人を呼んで“証文の書き換え”を思いついたのです。

このたとえ話の主人は神です。では管理人は誰でしょうか。それは、このたとえ話に触れるすべての者です。イエス様は<不正な管理人>の話を、聞き手の心の状態によって意味が変わるように語られたのです。

パリサイ人が聞けば、自分たちの富への執着と偽善が明らかにされます。弟子たちが聞けば、賜物を賢く迅速に用いるように促されます。私たちが聞けば、自分に委ねられた時間/能力/財産/知識などの用い方が問われます。

私たちには、いろいろなものの管理が任されています。私たちは、神から与えられた恵みの財産を無駄に遣っていないでしょうか。

牧師であれば、遣わされた教会で、主に忠実な牧会に努めなければなりません。信徒であれば、賜物を用いて人々にイエス・キリストを証ししなければなりません。

しかしながら、私たちは常に良い働きができるわけではありません。失敗して不正な管理人になることもあります。

イエス様が、このたとえ話で私たちに求めておられるのは、「あなたが神の働きを続ける中で、緊急事態に陥ったとき、知恵を働かせて迅速に対応する」ことです。

私たちの周りには、救われるべき方々が多くおられます。また私たちも、年を取って動けなくなってきている。今は緊急事態です。

それで今日のみことばは、私たちに教えます。①危機に直面した時に「迅速に行動」して「将来の備え」をした。 ②イエス様は管理人の“賢さ”を褒められた。 ③私たちも、与えられている賜物の用い方を真剣に考えなければなりません。

それでイエス様は言われます。9節『不正の富で、自分のために友をつくりなさい』。聖書が語る良し悪しの基準はあくまでも神です。そして神と対極に置かれるのが“この世”です。

神が与えられる富は“永遠の富”であり、世の富は一時的なものです。その意味で神の目から見た時、人がこの世で獲得する富はすべて“不正の富”です。

この世の財産、社会的地位や名誉、また自分自身に与えられている健康も、いつかなくなるものであり“不正の富”です。

ですから、イエス様が「不正の富で友をつくれ」と言われるのは、「この世の富を用いて、永遠に価値あることをしなさい」と言われたのです。

ですから、不正の富で友をつくるとは、私たちに与えられた富=それが財産であっても、健康であっても=その富を自分の栄光のためではなく神の栄光を現わすため、人々に神の愛を伝えるために用いることです。

ここでは富そのものが悪であると言われているのではなく、その富をどのように用いるかが問われているのです。

そしてあなたの地上の富がなくなったとき、年老いて自由に動けなくなり、精神的にも辛くなり、もう新しい友をつくることができなくなったときに、それまであなたが神の栄光を現わして地上に残してきたもの(信仰の実)が、神の前にあなたが忠実なしもべであったことを証ししてくれます。

またイエス様は“小さいこと(世的なこと)”, “大きなこと(神の国に係わること)”について語られます。イエス様は「地上の働きに忠実な者でなければ、神の国の働きは任されない」と言われます。

私たちが、与えられている神の財産を正しく管理するとは、与えられた賜物を用いて神の栄光を現わすことです。あなたは<神の富の管理者>です。

“不正な管理人”ではなく“正しい管理人”として、自分に与えられた賜物をどのように使うかは、あなた自身に任されています。

ただイエス様は、あなたが知恵を用いて賢く、また迅速に判断して神の栄光のために働くことを期待されているのです。

そして最後にイエス様は、私たちに警告されています。『あなたがたは、神と富とに仕えることはできません』。私たちが、一時的な地上のことに心を奪われるなら、永遠の神に仕えることはできないのです。

そして、そのような生き方をまさに実践してくださったのがイエス・キリストなのです。

私たちは、自分に与えられた才能や物質的財産を賢く管理して、神の栄光を現わすことが期待されているのです。それが、主が望まれる<神の富の管理者>の在り方です。