2025年07月06日(日)

=あなたが真の喜びに生きる信仰者であるために=

<福音書>ルカの福音書10111, 1620

イエス様は72人の弟子たちを村々へ派遣されました。イエス様は、一人でも多くの人に福音を語り、福音宣教の担い手を残そうとされたのです。

イエス様は言われます「収穫は多いが、働き手が少ない」。収穫とはイエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じる者を起こすことです。

その当時のユダヤ社会は律法に支配された社会です。でも誰一人として律法を守り通すことはできません。律法は人に罪を教えますが、その者を天の御国へ導くことはできません

そのために、イエス様が十字架で血を流してくださった。イエス様は「その事実を世の人々に伝える働き人が少ない」と嘆いておられる。

イエス様は言われます『収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』。このことばから、私たちは感謝すべき三つのことを教えられます。

一つは、イエス様が父なる神を<収穫の主>と呼ばれていることです。そのことは“人のたましいの救い”の主権は神にあることを表しています。宣教の働き手を増やすことも、魂を刈り取ることも、最終的には神の御手の内にあるのです。

二つ目は、イエス様が『ご自分の収穫のために』と言われることです。それは人のたましいの救いが、神の栄光とご計画の成就のためであることを示しています。ですから福音宣教の働きは、基本的には神のための働きです。

三つ目は、イエス様が弟子たちに『働き手を送ってくださるように祈りなさい』と言っておられることです。弟子はすでに働き手なのです。

それでイエス様は「狼の中に子羊を送り出すようなものです」と言って72人の弟子たちを送り出されました。悪魔の目的は、人のたましいを神から引き離すことです。だから悪魔は、弟子の働きを妨害するのです。

でも子羊は無力のように見えますが、自分が無力であることを知って神により頼むことこそが、福音宣教における勝利の鍵です。また宣教は神の働きであり、弟子はその器です。

パウロは『私たちは、この宝を土の器の中に入れています』と書いています。「土の器」は壊れやすく、取るに足らない存在としての私たちを現しています。

ですから福音宣教において土の器に入れるべきは、自分の誇りではなく“神の栄光”です。

またイエス様は弟子たちに、家に入ったときは「この家に平安があるようにと言いなさい」と言われる。この平安は<神の臨在と祝福>を意味します。人にとって、“神がともにいてくださる”と分かること以上の幸いはありません

そして最後にイエス様は弟子たちに、「神の国があなたがたの近くに来ている」ことを伝えるように命じられました。

「神の国が近くに来る」とは、その人の罪が赦され永遠のいのちが確かなものとされることです。ここでイエス様は「ご自分が神の国の到来そのもの」であり、贖いの業は神のご計画の中ですでに確定していると言っておられます。

そのことは、神の国は時間的にも空間的にも「今・ここ」にあるという福音の確信を教えているのです。クリスチャンは、昨日の信仰に安住するのではなく、今日の神の語りかけに応答して成長させていただくのです。

私たちは「神の国が近づいた」こと、イエス・キリストが全人類の罪を赦すために十字架で死んでくださったので、「あなたの罪はすでに赦されている」と語らなければなりません。

さて派遣されていた72人の弟子たちが喜んで帰ってきました。 確かに病の者が癒されて元気を取り戻し、悪霊につかれた者が解放されて正気を取り戻すのを見るのはすばらしい。

しかしイエス様は、目に見える神の力に喜びを見出すのではなく、「あなたがたの名が天に書き記されている」ことを喜びなさいと言われます。つまり、あなたと神との永遠の関係にこそ真の喜びがあると教えられました。

それは一時的な地上の成功よりもはるかに大きな恵みであり、イエス様はその事実に心を留めるよう促しておられます。

私たちもともすれば、地上の栄光に目を奪われがちになる者たちですが、もう一度、イエス・キリストの十字架によって与えられた<永遠のいのちの希望>を見つめ直そうではありませんか。

主は、そのような者を新たな所へと派遣されるのです。そして、そこにこそ私たちの<信仰者としての喜び>があるのです。