
2025年05月28日(水)
<讃美歌>讃美歌394番「主よ終わりまで」
<聖書日課>ルカの福音書2章25~38節「神の慰め」
イエス様がベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった後、ヨセフとマリアは暫くそこに留まり、きよめの期間(40日間)が過ぎたところで、幼子のイエス様を主にささげるために、エルサレムの神殿に向かいました。
それでヨセフとマリアが宮の中に入ったとき、シメオンが近づいてきました。シメオンは「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んで」(25節)いました。
イスラエルが慰められるとは、聖書の預言通りに「イスラエルの中に救い主メシアが到来して、人々の罪の赦しの道が備えられること」です。
シメオンは、ヨセフとマリアに抱かれたイエス様を見たとき、その幼子がキリストであると分かったのです。シメオンはキリストを見ることを、長い間待ち焦がれていました。
シメオンは主に祈ったでしょう。「主よ、あなたは私に『あなたは必ずキリストを見る』と約束してくださいました。その約束はどうなったのでしょうか。いつ私にキリストを見せてくださるのでしょうか」と。
でもシメオンは、信仰を持ち続け、約束を信じて待ち続けたのです。それが、主の前に「正しい、敬虔な人」の姿だからです。
シメオンは、両親からイエス様を受け取り、腕に抱き、主をほめたたえて祈りました。その祈りの中でシメオンは、幼子イエス様を「万民の前に備えられた救い」、「異邦人を照らす啓示の光」と預言しました。
それは、イエス様が全人類の罪からの救い主であり、異邦人の救い主でもあるからです。
そのシメオンの預言通りに、イエス様は私たちの罪をも赦すために十字架で死んでくださり、救いの道を示す啓示の光となってくださいました。
私たちも、シメオンと同じように、聖書のみことばを通してキリストを見ました。イエス様が、私の罪を赦すために十字架で死んでくださったことを知っています。
私たちもシメオンと同じように、この世で生きています。苦しいこともあります。世の荒波にもまれ、「主よ。あなたは私を導いてくださらないのですか」と叫びたくなることもあります。
主はともにおられます。人生の最後に、シメオンに神の慰めを見せてくださったように、私たちにも<神の慰め>を見せてくださいます。神の慰めは完全な慰めです。
その時まで、主の前に正しい敬虔な者として<神の慰め>を待ち望みたいものです。すべてをご存じである主に感謝して、
アーメン