
2025年04月30日(水)
<讃美歌>讃美歌337番「やすかれ、わが心よ」
<聖書日課>ルカの福音書12章1~12節「神を畏れる」
イスラエルの人々の間で、イエス様の人気はますます高まっていきました。1節には、『数えきれないほどの群衆が集まって来て、‥』とその様子が記されています。
イエス様の話には力があり、人々の心を打つものがありました。イエス様が行われた不思議なわざを見て、人々はそこに神の力を見出したからです。
人々の間で、イエス様の人気はますます高まっていったでしょう。それとともに弟子たちも、「自分たちは特別な者たちなんだ」と思うようになったでしょう。
そのような弟子たちに、イエス様は二つの注意を与えられました。人は、すべてが順調に進んでいると思えるような時に、サタンの誘惑に陥りやすいからです。
一つ目の注意は、「パリサイ人の偽善に気を付けること」です。パリサイ人たちは、人々の前では神を畏れている者のように振舞っていましたが、その実は、神よりも人の評判を気にしていたからです。
イエス様は、そのようなパリサイ人への裁きについて「隠されているもので知られずにすむものはありません」と言って、彼らは必ず裁きを受けると暗示されました。
二つ目の注意は、「神を正しく畏れること」です。このことについてイエス様は、5節で「殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威をもっておられる方を恐れなさい」と言われます。
人は自分のいのちに危険が及ぶときに恐れを感じます。当然だと思います。しかし、人は他の人の肉体のいのちに触れることはできますが、その人の魂に触れることはできません。
それでイエス様は弟子たちに言われます。10節「聖霊を冒瀆する者は赦されません」。聖霊を冒瀆するとは、神を神として認めないことです。「神を神として認める」。これこそ、神がすべての人に求められていることです。
イスラエルの伝道者はこのように語っています。『神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである』(伝道者の書12章13節)
しかし人は、神をどのようにして認めることができるでしょうか。イエス・キリストのゆえに神に感謝します。 イエス様は、弟子たちにこのように言っておられます。
8節『だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます』。そうです、このイエス様のことばから教えられることは、「神を畏れることは、イエス・キリストを深く知ること」なのです。
パリサイ人は、イエス様を目の当たりにしながら、イエス様を正しく見ることができませんでした。だから彼らには平安がなく、人の目を気にするようになってしまった。
私たちは、自分にとってイエス様はどのような方なのかを正しく教えられ、これからもイエス様に正しく仕える者でありたいと願っています。そのような者が、<神を畏れる者>として、祝福を受けるのです。
アーメン