2025年03月02日(日)

=イエス様の祈りが私の祈りとなるために=

<福音書>ルカ9章28~36節

イエス様が地上に来られた目的は、全人類の罪を贖うために十字架で血を流すことと弟子訓練です。十字架の苦しみはイエス様の使命です。

弟子たちは、イエス様がキリストであることは理解しましたが、使命を理解していなかったのです。それでイエス様は、ペテロ/ヨハネ/ヤコブを連れて祈るために山に登られた。

そこでイエス様の顔の様子が変わり衣は白く輝きました。それはイエス様の本来の姿です。イエス様は、そのような栄光に富んだ姿を捨てて、罪深い人間の姿をもって地上に来てくださった。

これにより神は、弟子たちに神の愛の大きさ/イエス様の謙遜さ/人間の醜さを示されたのです。人は自分だけを見つめているのなら、自分の醜さ、自分の罪深さに気がつきません。

聖いものに触れて、人は初めて自分の汚れに気がつくのです。 そしてモーセとエリヤが現れ、イエス様と話しをしている。それはイエス様が旧約聖書に預言されている<救い主メシア>であることを示しています。

そしてイエス様とモーセとエリヤは、イエス様の十字架の死について語っていたのです。この出来事により三人の弟子たちは、イエス様の本来の姿と十字架の使命を教えられたのです。

弟子たちは心の鈍い者たちでした。彼らの霊的な心は眠っていました。あなたは、霊的に鈍感な者になっていませんか。人は、この世のものに目を向けるとき、その者は霊的に鈍感になり、たましいは眠ってしまいます。

イエス様が誰なのかが分からなるのです。みことばはあなたに勧めます。常にイエス・キリストに目を向けなさいと。

ただその時ペテロはあわてたようです。幕屋を三つ造りますと提案しました。この提案は的外れです。ペテロの最も大きな的外れは、イエス様をモーセやエリヤと同じように扱ったことです。モーセとエリヤは人間であり、神であるイエス様と同一に扱うことは間違いです。

ペテロのもう一つの的外れは、「すばらしい体験のしるしを残すことが、イエス様のためだ」と考えたことです。イエス様が人に求められることは、信仰をもってご自分に忠実に従うことだけです。

ではその時、ペテロは何をすれば良かったのでしょうか。何もする必要はなかったのです。

ただ目の前で栄光に輝くイエス様の姿を目に焼き付け、イエス様がモーセとエリヤとともに、ご自分の最期について話しておられる姿をしっかりと心に刻んでおけばそれでよかったのです。

そして、雲の中から聞こえてきた神の声に聞き従えば良かったのです。神の声は言います『これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け』。

神の声はあなたにも語りかけます。「イエスはわたしの選んだ子。イエスの言うことに聴き従え」と。あなたの耳は、神の声/イエス・キリストの声をしっかりと聴いているでしょうか。神の声は聖書の中から聞こえて来ます。

イエス様は、あなたのために祈っておられます。主は、あなたがみことばを聞くことにおいて鈍感な者とならず、あなたの霊の目が眠らないように祈っておられます。

イエス様の祈りは、あなたが白く輝くイエス様の栄光の姿を忘れず、イエス様があなたの罪を赦すために十字架で死んでくださったことを忘れず、あなたがイエス様の福音を世に伝える弟子とされるための祈りです。

あなたの心の目に、栄光に輝くイエス様の姿を焼き付けてください。あなたの心に、罪を赦すために十字架で苦しんでくださったイエス様の姿を刻み付けてください。

イエス様は、あなたをペテロやヨハネやヤコブと同じように、有用な弟子としたいと望んでおられるのです。