
2024年07月10日(水)
<讃美歌>讃美歌285番「シオンよ, いそぎ伝えよ」
<聖書日課>ヨハネ7章1~9節「神の栄光を現す時」
新改訳聖書では、「わたし(私)」ということばが、神やイエス様を指す場合は平仮名の<わたし>が使われ、それ以外の人を指す場合は漢字の<私>が使われています。
イエス様は兄弟たちに「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。兄弟とは、イエス様の肉の弟であるヤコブやユダのことです。 その時、イエス様はガリラヤで宣教活動をしておられました。
ちょうど仮庵の祭りが近づいて来たころです。イエス様は、ガリラヤ地方で不思議な奇跡を行われ、多くの病人を癒されました。
それで兄弟たちは、イエス様に言います。「自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。自分を世に示しなさい」(4節)。
兄弟たちの願いは、「イエス様が神の力を用いて奇跡を行い、自分の栄光を世に表すこと」です。そのような兄弟たちのことばに対して、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と言われます。
イエス様が言われる<わたしの時>とは、「わたし(イエス様)が、神の栄光を現す時」です。イエス様が神の栄光を現される時とは、十字架の時です。
イエス様は、父なる神がご計画、すなわち”全人類の罪の贖い”を完成するために十字架で死んでくださったのです。その十字架の時は、過ぎ越しの祭りのときに実現されることに定められていました。
だから、イエス様が神の栄光を現す時は、まだ来ていないのです。
しかし、私たちの時はいつでも来ています。私たちは、イエス様の十字架の血によって罪が赦されたことを知っています。
私たちは、そのことを心から感謝しています。その感謝を現す時はいつでしょうか? 今です!! 私たちは、イエス・キリストの十字架の死を心から感謝するときに、神をほめたたえるのです。
その意味で、あなたにとって「私の時はすでに来ています」。あなたが、神の栄光を現される時に、「まだ早い」とか「もう遅い」ということはありません。
あなたは、いつでも神の栄光を現すことができるのです。いや神は、あなたがいつもイエス・キリストに従うことによって、神の栄光を現すことを待っておられます。
私たちは、これからの信仰生活において、常にイエス様に目を向け、神の栄光を現す者として過ごさせていただきましょう。
アーメン
2024年07月14日(日)
=あなたがキリストにあって信仰生活を歩むために=
<使徒書>エペソ1章1~14節
パウロはこの手紙で、 神がほめたたえられるべき方であることと、 人がキリストとともにいることによって、神がその者を祝福してくださることを訴えています。
私たちも、信仰者として歩む中でキリストと一緒であったからこそ、神の一方的な祝福も受けてきました。
またパウロは4節で『神は、‥この方にあって私たちを選び、‥』と言って、神が“ご自分のために、私たちを選ばれた”ことを示しています。
パウロのことばは、「あなたは、父なる神をほめたたえていますか」と私たちに問いかけます。
また人は、イエス・キリストに近くあればあるほど、心の内に潜んでいる小さな罪をも自覚させられます。ここで神が問題にされるのは、あなたが<神の前に罪人であるか否か>です。
キリストにあって、私たちを活かす神の恵みのご計画は本当にすばらしいものです。
神はキリストにあって、私たちをご自分の子にされました。これは神の恵です。神はキリストにあって、私たちの罪を赦されました。神はひとり子イエス様の血を身代金として支払ってくださったのです。
神はキリストにあって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。奥義とは、人類の罪からの救済そのものです。
神はキリストにあって、私たちを、御国を受け継ぐ者とされました。私たちも神とともに、すべての物を所有することになるのです。
それは、私たちが神の栄光をほめたたえる者となるためです。
私たちは、キリストにあって救いの恵みに与かった者です。 パウロは、13節で、それは「あなたがたが、救いの福音を聞いてそれを信じたことによる」と言っています。
そして信じた者は、神の聖霊を受けており、それが神の御国を受け継ぐことの保証ですと言っているのです。
パウロは、エペソ教会の人々に「これだけの恵みを受けてきたあなたがたは、神をほめたたえない訳にはいかないでしょう」と言っています。
私たちもまったく同じです。エペソ教会の人々への約束は、私たちへの約束です。私たちも“キリストにあって”神の恵みを受け、天の御国を受け継ぐ者とされています。
パウロは、ローマの牢獄で活動を制限された罪人して捕らわれている。でもパウロは、キリストにあって自由な者とされていることを喜んでいます。
パウロの肉体は、鎖につながれており、牢獄を一歩も出ることはできません。パウロの肉の力は、足の鎖を引きちぎるにはあまりにも弱い。
しかしパウロのたましいは“キリストにあって”羽が生えたように自由に飛び回り、今エペソの教会に思いを馳せている。
私たちも、キリストにあって自由な者です。私たちは、天の御国に国籍を置く者(ピリピ3章20節)ですが、肉の牢獄に閉じ込められている。
私たちの肉の牢獄は、罪という太い鉄格子で取り囲まれており、私たちの力はその罪の鉄格子を取り去るためには余りにも弱い。
しかし私たちのたましいは、キリストにあって自由です。イエス・キリストが罪の鉄格子を取り除いてくださったからです。
それゆえパウロは、あなたに「神をほめたたえてください」と言っている。「キリストの十字架によって罪から解放されたあなたは、神をほめたたえざるを得ないでしょう」。
それが「キリストにあって、あなたが生きる生き方だ」と言っている。あなたがキリスト者とされたことを感謝し、喜んでいる生き方が、キリストにあって生きることなのです。