
2294年05月29日(水)
<讃美歌>讃美歌374番「たよりまつる」
<聖書日課>マルコ4章21~25節「明らかにされる神の宝」
明かりを桝の下や寝台の下に置いても役に立ちません。燭台の上に置いて初めて部屋全体のどこからでも、その明かりを見ることができるのです。
福音書記者マルコは、この<明かりのたとえ>を、<種まきのたとえ>に続いて書き記しました。イエス様の福音の種は、道端やいばらの中に蒔かれても芽を出しません。無意味です。
同じように、神の奥義であるイエス・キリストの福音を、人から見えないところに置いても意味はありません。福音は全ての人から見えなければなりません。
世界の歴史を見れば、福音は燭台の上に置かれ、すべての人から見えていました。そのため、イエス様の教えは全世界に広がり、大きな福音の木として成長しています。
では、あなた個人としては、あなたが持っている福音の明かりはどこに置かれているでしょうか。
あなたの福音の明かりは、燭台の上に置かれているでしょうか。 それは、他の人があなたを見て、またあなたの話を聞いて、あなたがキリスト者であることが分かることです。
イエス様は言われます。「聞く耳があるなら、聞きなさい」と。聞く耳を持つとは、注意深く聞くことです。 人が注意深く福音を聞くなら、そこに救いがあることが分かるのです。
いや、その人はそこにしか救いはないことを理解します。 注意深く聞けば、「隠されたものであっても、秘められたものであっても」その者には明らかにされるのです。
パウロは言います。「きりすとのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」。(コロサイ2章3節) そうです。私たちは、キリストのうちにある宝を世の人々に知らせる者なのです。
またそのことは、私たちがイエス・キリストご自身を世に伝えることです。
私たちは、イエス・キリストの福音を知っている者ですが、まだそのすばらしさの一部分しか知らないのではないでしょうか。
イエス様が「聞く耳があるなら、聞きなさい」と言われるように、私たちがイエス様の言葉を更に注意深く聞き、イエス様ご自身を更に注意深く見るならば、私たちに示されている神の奥義のすばらしさを教えられるのです。
その時イエス・キリストの福音は、あなたによってますます明るく燭台の上で輝きを増すのです。
これからも皆様方が、主にあって祝福され、神の奥義である福音の恵みを、輝かす者とされますように願っております。
アーメン