
2024年04月28日(日)
=あなたがみことばに生きる者となるために=
<福音書>ヨハネの福音書15章1~8節
イエス様は「わたしはまことのぶどうの木」との印象的な話をされて、神に対しての弟子のあり方について教えられました。
枝である人々は、イエス様につながっていなければ、神のために実を結ぶことはできません。人が、神のために結ぶ実。それは、その者が神の命令を守り、神をほめたたえることです。
また神は、刈り込みによって神の声を聞こうとしない者をイエス・キリストから切り離されるのです。
人にとって、イエス・キリストから切り離されること以上に恐ろしいことはありません。それは永遠の滅びに直結するからです。
また私たちも、さらに神の栄光を現す者となるために、さまざまな訓練が与えられます。それも刈り込みです。神によって、刈り込みをされない信仰者はおりません。
刈り込みとは、枝に傷をつけることです。刈り込みがなされるとき、その者の心は傷つきます。しかしその刈り込みは、あなたを痛めつけるものではなく、あなたがより多くの恵みを神から受けるためのものです。
クリスチャンは、神から受ける訓練が厳しいものであればあるほど、受ける恵みも大きいのです。
あなたが神のために実を結びたいと思うなら、その思いはあなたの中におられるイエス様から出たものです。
人がイエス・キリストにつながっているのなら、その者の心の内に「神の栄光を現すために何かをさせていただきたい」との思いが起こされるのです。
人はイエス様とつながっていて、イエス様から励ましを受けなければ、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることはできません。
7節、『わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、‥』。イエス様はこのことばで、「わたしがあなたがたの中にとどまる」ことは、「わたしのことばがあなたがたの心にとどまることです」と言われました。
ことばが心にとどまるとは、イエス様の声に従うことです。 私たちの日々に生活に当てはめれば、「あなたが聖書のみことばに従って日々の信仰生活を過ごしているならば、‥」ということです。
そのような者は、神の御心を求めることを第一とします。 そのような者は、私利私欲のために何かを求めることはしません。
みことばに従って日々過ごす者は、神の栄光を現すために必要なものを求めますが、自分の利益のために何かを求めることはしません。
またこの箇所でイエス様は「わたしにとどまりなさい」と繰り返し繰り返し語っておられます。それは、イエス・キリストがクリスチャンの原点だからです。
キリストによって、キリストのために、キリストとともに歩むのがクリスチャンです。
クリスチャンの行動原理はイエス・キリストなのです。 そのことは、
クリスチャンを動かす力は、イエス・キリストのことばであり、クリスチャンの行動の目的は、イエス・キリストを伝えることであり、クリスチャンの人生の目標は、イエス・キリストに似ることであるからです。
そのためには、あなたがイエス・キリストにとどまり、あなたの心の中にイエス・キリストに住んでいただかなければならないのです。
すなわち、聖書のみことばに生かされることが<キリスト者の原点>なのです。そのように生かされる者が、神の恵からもれることは決してありません。