=あなたが主に似た者となるために=

<福音書>ヨハネ11章1~45節

ラザロの病気が伝えられた時、イエス様は言われました『この病気は、神の栄光のためのものです』。神の栄光は、キリストの十字架の死によって現わされます。

そのためユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺すことを決意するのです。彼らは、イエス様の力あるわざを見ても神をほめたたえるどころか、自分たちの立場を心配したのです。

人はイエス・キリストから目を離したとたんに病気(信仰が弱く)になります

また神の愛は、人が一層神の偉大さを知り、神の栄光を現わす者となるために与えられます

そのためイエス様は、マルタとマリヤが更に深い神の愛を教えられるために、なお二日その処にとどまられたのです。

さてその時、弟子たちはユダヤ人を恐れて信仰につまずかんばかりなっていました。それは彼らが、イエス様の愛を見ないでユダヤ人たちを見たからです。

人は、イエス様を見ておればつまずくことはありませんつまずくとは、永遠のいのちに至る道から外れていることです。

イエス様の願いは、弟子たちがご自分を<死の征服者>として信じることでした。その願いは私たちにも向けられているのです。

さてマルタは言います。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう』。このことばに、マルタのイエス様に対する二つの思いを見ます。

一つは、残念でならない思いです。一番必要な時にイエス様はいなかった。マルタは、それが残念でならなかった。もう一つは、それでもイエス様を信頼する思いです。

しかしマルタは、イエス様が死を克服するために来られたことを知らなかった。

死を克服する。それは死ぬことのない肉体をもってよみがえることです。

それ故、主は言われます。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』。

このことばは「イエス様を信じる者は、現実の社会においても永遠のいのちを経験する」ことも意味します。

このことばで私たちは、イエス様が死を征服された方であることを教えられ、逆境の中にあっても主を見上げて喜ぶ力が与えられるのです。

それが神の栄光を見ることであり、そのようなあなたに、主は信仰者として生きる力を増し加えられるのです。

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