=あなたの信仰生活が喜びで満ち溢れるために=

<福音書>ヨハネ9141

『イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた』。イエス様は、この男が盲目に生まれついたのは、神のわざがこの人に現れるためだと言われました。

それは、すべての人にとっても、霊的な目が開かれることが必要であると言われているのです。それは、イエス・キリストは私にとって誰なのかを知ることです。

イエス様が放つ光は、それによって照らし出される者の心の状態を明らかにして罪を示し、その者に罪の束縛から解放される道を教えます

さてイエス様はこの奇蹟を率先して行われました。そこに私たちは、イエス様の決意を見ます。その決意は、すべての人は生まれた時から心の目が閉ざされており、開けられなければならないと教えることです。

それで、シロアムの池で目を洗った男の生活は一変しました。暗闇の世界に光が入ってきたのです。その喜びは飛び上がらんばかりです。

しかし、パリサイ人はこの男の目が開けられたことを信じようとしなかった。その日が安息日だったからです。パリサイ人は律法に固執しました。

そこに彼らの罪がありました。力あるわざを行われるイエス様の姿は、彼らの思い描いていた救い主の姿とは違ったので納得できなかったのです。

しかし、神が人に求められるのは、納得することではなく信じることです

一方盲目だった男は、脅されても自分の身に起きたことを語り続けたのです。神によって目を開けられた者は、神中心の道以外を歩むことはできません

神が求めておられるのは、罪を認め悔いた心で主に従うことです。パリサイ人は「自分は目が見える」と言いながら、神は何を望んでおられるのかが見えなかった。そこに、彼らの盲目があったのです。

また「神に栄光を帰する」(24節)とは、ただ神が与えようとして差し出しておられる恵みを素直に受け取ることです。

人は、イエス・キリストから目を離したとき、知らず知らずのうちに信仰の光を失います。

逆に、イエス・キリストを更にしっかりと見つめる時、主は私たちの目をいっそう大きく開けてくださり、主がいつも私たちとともに歩んでくださる喜びをハッキリと見させてくださるのです。それが<神を見る喜び>です。

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