<讃美歌>讃美歌238番「いのちの糧 主よ今」  

<聖書日課>ルカ9章18~27節「まことのいのちの価値」

イエス様は弟子たちに、「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と尋ねられました。この群衆とは、直前に記されている5,000人の給食を体験した群衆です。

弟子たちの答えは、イエス様をがっかりさせるものでした。

群衆は、神の力を持つものだけしかできないような奇蹟を目の当たりにしておきながら、「バプテスマのヨハネだ」、「エリヤだ」、「昔の預言者の一人が生き返った」としか認識しなかったのです。

イエス様は、そのような群衆の心の鈍さをなげかれました。 それで、同じように5,000人の給食を体験した弟子たちにも問われました。

「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と。ペテロは答えます。「神のキリストです」と。するとイエス様は弟子たちに「そのことを誰にも話さないように」と強く命じられました。

何故、「イエス様は、神であり、キリストである」と話してはいけないのでしょうか。

イエス様はすべてご存じでした。群衆も弟子たちも、心の鈍い者であることを知っておられたのです。

弟子たちは、「神のキリストです」と答えても、キリスト観が違いました。弟子たちは、イエス様に、地上においてイスラエルの国を再興してくれる救い主(キリスト)を観ていたのです。

弟子たちは、イエス様が不思議な力で、ローマの圧政からイスラエルを救い出す英雄となり、自分たちは、英雄イエスの直属の弟子として人々から尊敬されるような希望を持っていたのかもしれません。

そのような弟子たちが、「イエス様は、神のキリストです」と人々に伝えれば、まことの福音は蜃気楼のように消えてなくなります。

そこでイエス様は、まことのいのちを獲得するとはどのようなことなのかを弟子たちに教えられました。

人がまことのいのちを獲得するためには、二つのことが必要です。

一つは、人の子(キリスト)が、苦しみを受けて殺され、三日目によみがえること。(22節) これは、救い主キリストが人々の罪を贖って死に、その後、死をも打ち破ってよみがえることです。

もう一つは、人が、自分を捨て、イエス様に従うこと。(23節)  これは、人が神様の前に謙虚であり、イエス様が罪からの救い主として信じ従うことです。

25節でイエス様は、「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」と言って、人がまことのいのちを獲得するすばらしさを語っておられます。

私たちは、目に見えること、聞いて分かること、触って感じることに心を動かされやすい者ですが、まことのいのちは、「イエス様は誰なのか」を心で感じて信じる時に与えられるものです。

群衆や弟子たちは、この世の栄光を求めていましたが、イエス様は「全世界を手に入れることにまさるいのちを獲得しなさい」と言われます。

私たちクリスチャンは、今、自分に与えられている「まことのいのちの価値」をもっと心に強く感じる必要はないでしょうか。

私たちが「まことのいのちの価値」をもっと深く教えられた時、私たちの周りに神の国は広がっていくのではないでしょうか。

アーメン

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