
<讃美歌>讃美歌290番「ガリラヤの風」
<聖書日課>ルカ17章1~4節「愛のチャレンジ」
この箇所では、私たちクリスチャンに対する三つのチャレンジが記されています。
一つは、つまずきを与えないことであり、もう一つは罪を犯した者への対応です。
つまずきとは、世を愛することであり、罪への誘惑です。Ⅰヨハネ2章16節には、私たちを罪へいざなうものを「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」と表現しています。
この世には、つまずきになり得るもので満ちています。私たちは、つまずきに囲まれて生活しているようなものです。
人は、裕福な生活がしたい、人から良く思われたい、大きな家に住みたいとの思いを常に持っています。それは、2000年前も同じです。
イエス様は弟子たちに「つまずきが起こるのは避けられない」と言われました。つまずくとは、神様への罪を犯すことです。
人は、生まれながらにして心の内に罪の性質を持っているので、罪を犯すことから逃れることはできません。すべての人は、罪を犯すのです。
しかしイエス様は、「つまずく者(罪を犯す者)はわざわいだ」とは言われませんでした。罪を犯す者には、悔い改めの機会が備えられているからです。イエス様の十字架の守りがあるからです。
しかし、他の人につまずき(罪)を起こさせる者は赦されません。その者は、意図的に他の人を神様から引き離そうとするのです。
私たちは、意図的に人をつまずかせようとは思いませんが、やはり人につまずきを与えないように常に配慮する必要はあります。
もう一つのチャレンジは、私たちの他の人の罪に対する対応です。
イエス様は、「もし兄弟が罪を犯したらなら、彼を戒めなさい」と言われました。この”戒める”とは強いことばです。
そこには、「罪に対して妥協してはいけない」との思いが込められいるようです。私たちは、安易に妥協することがありますが、罪は罪としてハッキリと認識する必要があります。
そして、私たちの戒めに対して罪を犯した者が悔い改めたなら、あなたは信仰の友を獲得したことになります。
最後のチャレンジは、忍耐のチャレンジです。
自分に罪を犯す者を赦すことは難しいことです。私たちはすぐに相手を非難して裁こうとします。
しかしイエス様は、「あなたに対して一日に七度罪を犯しても、悔い改めるなら赦しなさい」と言われます。
このことばの背景には、「あなたは、神様から、あなたの計り知れない大きな罪を赦していただいたのです」との事実があります。
神様は、私たちが悔い改めたので、私たちの大きな罪を、忍耐をもって赦してくださいました。私たちは、その罪を赦された感謝を忘れてはいけません。
その感謝をもって、私たちは他の人たちの罪を、もしその者が悔い改めるなら、忍耐をもって赦さなければなりません。
つまずきを与えないこと、人の罪を赦すこと、忍耐を働かせること。
この三つのチャレンジは、まさにイエス様が私のために受けてくださった愛のチャレンジではないでしょうか。
私たちも、イエス様の私に対する愛に感謝して、その愛を周りの方々に振り分ける者とさせていただきましょう。そのような者のところに、”神の国”が来るのです。
アーメン
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