
<讃美歌>讃美歌285番「シオンよ、いそぎ伝えよ」
<聖書日課>ルカ19章41~44節「イエス様の涙」
イエス様はエルサレムのために泣かれました。イエス様は神ですが、同時に完全な人です。喜びも悲しみの感情も持たれます。
イエス様は、ラザロが死んだ時(ヨハネ11:35)も涙を流されたことがありました。
その時は、イエス様が個人的に親しくされていたマリヤとマルタの悲しみを見て、弟を失った姉妹の失望の大きさに同情された涙でした。
しかし今回の涙は、人々の不信仰に対する<神の怒りの涙>です。
イエス様は、その時まで福音を語り続けられました。「罪を悔い改めなさい。私を罪からの救い主として信じなさい。 そうすればあなたがたは、義とされ天の御国に入ることができます」。
でも、その声に従ったのはごく一部の人々だけでした。殆どの人は、律法にしがみつき、努力して天の御国へ入ろうとしました。
そしてついには、人々は ”救い主” を十字架で殺す罪まで付け加えることになるのです。イエス様は、そのような人々のたましいの滅びを悲しまれたのです。
43,44節の「やがて敵が、四方から攻め寄せ、一つの石が他の石の上に積まれたまま残ることのない日がやって来る」。それは西暦70年のローマ軍によるエルサレム侵攻によって現実となります。
その時、エルサレム神殿も徹底的に破壊されます。もちろん神の神殿が破壊されることは悲しいことです。しかしイエス様は、その出来事の原因となる人々の不信仰をもっと悲しまれたのです。
42節「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている」。
エルサレムの人々は、神様との平和を知らなかった。神様との平和そのものであるイエス様を見ようとしなかった。 そこに、人々の罪の根源があったのです。
イエス様は、その人々の罪のために<泣かれた>のです。
今、イエス様は泣いておられる。なんと多くの人々が、神の平和そのものであるイエス様を見ようとしない事か。
あなたは、イエス様の涙を見て泣いていますか。あなたは「イエス様の涙は、私の涙です」と言えますか。
イエス様の悲しみは、私たちの悲しみです。イエス様の涙は、私たちの宣教の力です。
私たちは友人/知人の滅びのために泣き、彼らの永遠のいのちのために喜ぶものとされましょう。
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」詩篇126篇5,6節。
アーメン
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