
<讃美歌>讃美歌371番「いつくしみ深い」
<聖書日課>ヨハネ1章10~18節「キリストにある豊かな者」
この箇所は、1月2日の礼拝説教でも取り上げました。礼拝の中では、ヨハネの福音書では、いろいろな対比表現が用いられていることを話しました。<光と闇>、<霊と肉>、<いのちと死>などです。
そして私たちは、この箇所でもう一つの対比を見ることが出来ます。<世とヨハネ>の対比です。
これは、キリストを知らない人々とキリストを受け入れた人々の対比です。
10節に「世はこの方を知らなかった」とありますが、15節では「ヨハネはこの方について証言し」と記されています。実は、この対比は聖書全体に亘って記されている事実です。
16節には『私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである』とあります。神様は、ご自身を受け入れた人々に恵みを与えようとされています。それも、余りある恵みを与えようとされています。
10節に『世はこの方によって造られたのに、‥』とあります。これは、世のすべての富は神様/イエス様の物であることを示しています。
その有り余る富の中から、神様は私たちに分け与えてくださるのです。それも惜しげもなく与えようとしてくださいます。しかし世の人々は、キリストを受け入れずに、神様の恵みを受けようとしません。
それは、人々がこの世のちっぽけな富を追い求め、すぐに忘れ去られる名誉にしがみついているからです。
バプテスマのヨハネは、荒野で生活しながら、ラクダの毛で織った物を着て、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。(マルコ1:6)
その当時でも、ワイルドな生活をしていました。とても世的には裕福とは言えません。
では、ヨハネは貧しい生活をしていたのでしょうか?
福音書記者は、16節で、神様から恵みの上に恵みを受けた”私たち”の代表が、ヨハネであると言っています。その16節の原則は今の時代も有効です。
今の時代の人々が、イエス・キリストを認めないのは、この世のちっぽけな富を追い求めているからです。
今日は、2022年の最初の祈り会ですが、私たちはすでにイエス・キリストを受け入れた者として、
さらに恵みの上に恵みをいただける幸いを喜びつつ、この年を過ごさせていただきましょう。
そのような私たちを通して、神様はさらに福音を世に広められ、私たちはさらに恵みを与えられるのです。
それが、キリストにある豊かな者です。父なる神様が持っておられる富は、無尽蔵です。
主に感謝して、 アーメン
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