
<讃美歌>讃美歌371番「いつくしみ深い」
<聖書日課>マタイ5章27~36節「神の基準と人間の基準」
この箇所は、イエス様が小高い丘に登り、弟子たちや多くの群衆に語られた「山上の説教」の一部です。ここで私たちが驚かされることの一つは、神様の完璧さです。
多くの人は言うでしょう「私は姦淫の罪は犯していない」と。
しかしイエス様は、「だれでも情欲をいだいて女を見るものは、すでに姦淫を犯したのです」と言われます。どれだけの人が、この基準に耐えられるでしょうか。
神学校のある先生は、このことについて「もしイエス様の基準で判断するなら、私は、何回姦淫の罪を犯したか分からない」と言われました。
神様が求められる基準の完全さを教えられる思いがしました。
そこでイエス様は、「あなたをつまずかせるものを捨て去りなさい。体の一部を失っても天の御国に入るほうがゲヘナに入れられるよりは良い」と言われる。ここに私は、神様の”忍耐深さ”と”愛”を感じます。
神様の基準で判断するならば、人は罪を犯し続けています。そのような者がどうして天の御国に入ることができるでしょうか。
神様は、人間の罪に耐えてくださり、尚、愛を持ってそのような罪深い者をも天の御国へ招こうとしてくださっているのです。
人は努力するのが好きです。「努力家」ということばには、どことなく「まじめな良い人」との響きがあります。しかしイエス様は言われます、「神様の前に、誓いを立ててはいけない」(33節)と。
人には約束を守る力がないからです。
それゆえイエス様は、神様に頼ることを強調しておられるのです。
人間には、律法を守ることも、誓いを果たすこともできません。もともと罪を持っているからです。
私たちは、どれほど神様/イエス様に頼っているでしょうか。天の御国は主に信頼する者に与えられるのです。
『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです』(へブル11章1節)。
私たちは罪深く、神様の基準からは遠く離れたものですが、信仰によって神様の愛にすがりましょう。
そのような私たちが、神様の基準に相応しいものとみなされるのです。
アーメン
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