
=あなたが確かな信仰生活を過ごすために=
<福音書>ヨハネによる福音書6章56~69節
ユダヤ人たちは、『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、‥』このことばにつまずきました。
イエス様の教えは、ユダヤ教の律法主義を越える<真理の宣教>だったのです。
では何故、イエス様はこのような、人が聞いて耐え難い表現を使われたのでしょうか。
しかしユダヤ人たちは、それまでにもイエス様の権威あることばを聞き、多くの奇蹟を見てきた。彼らは、イエス様のことばを聞いても、奇蹟を見ても悟らなかった。
5,000人の給食の奇蹟は、まさに「わたしが父におり、父がわたしにいる」ことを明確に示した“わざ”でした。なのに多くの人々はイエスのことばにつまずいた。
つぶやきは不信仰から出てきます。彼らは、不信仰ゆえにつまずいたのです。
彼らは、イエス様のことばを霊の耳で聴かず、奇蹟を霊の目で見なかった。それで彼らは、信仰のふるいの目からこぼれ落ちてしまったのです。
もともと人は自分の罪ゆえに、ただ永遠の刑罰へと落ちて行くしかなかった。それで、神様の愛によってそこにイエス・キリストというふるいが置かれたのです。
そのふるいの目は細かい。自分で掴もうとすれば、だれでもその目を掴むことができる。
人が堕落しない秘訣は、心をイエス・キリストに向け続けることです。
イエス様がふるいを使われる目的は、こぼれ落ちる者を救うためです。
主は、一人でも多くの者を救いたいと思われ、懸命に福音を宣べ伝え、奇蹟を行われた。
それでも多くの者がつまずいた。
人は御霊(霊)によって永遠のいのちが与えられます。その霊とは「イエス・キリストが話されたことばそのものです」。
そのため聖書のことばから離れることは、イエス様から離れることであり、永遠のいのちから落ちてしまうことです。
実にイエス・キリストのふるいの目は、イエス様ご自身のみことばです。
その主イエスのみことばにしがみつくことこそ、<選ばれた者の務め>です。
そのようなあなたが、信仰のふるいの目からこぼれ落ちることは絶対にありません。
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