
<福音書>マルコの福音書6章14~29節
イエス様のうわさがヘロデに聞こえて来た時、彼はバプテスマのヨハネを殺したことを思い出しています。
ヨハネを殺した時、ヘロデは救われる絶好の機会を逃した。ヘロデは、ヨハネを殺してしたことでイエス・キリストとの接点を失ったのです。
私たちも、もっと深くイエス・キリストと交わることができるはずなのに、その機会を失ってはいないでしょうか。
ヘロデの誕生日にヘロデヤの娘サロメがヘロデの前で踊った。ヘロデは喜び「何でも欲しい物を与える」と約束した。
サロメはバプテスマのヨハネの首を願った。ヘロデにはサロメの要求を断る勇気がなかった。
ヘロデは、神の預言者のいのちと自分の体裁を天秤にかけ、神のことをおろそかにして自分の名誉を優先したのです。
私たちも信仰生活の中で、神様に関することをおろそかにしていないでしょうか。
私たちクリスチャンの行動の判断基準の一つは、<それをすることで、神様に感謝できるかどうか>です。
ヘロデはヨハネを殺したことを残念に思っても、「自分が罪を犯した」とは思っていない。
そこに、ヘロデの神の前の孤独があります。神の前に孤独である者は、自分の罪の弁護者を持たないのです。
ヘロデがヨハネを殺す記事は、私たちに深い寂しさを感じさせます。
その寂しさの頂点は、ヘロデが「悔い改めよ。天の御国が近づいたから」とのヨハネのことばに思い至ることがないことです。
私たちもクリスチャンであってもヘロデと同じように罪を犯します。
しかし私たちはその都度、イエス・キリストの福音のことばに立ち戻り、神様から慰めのことばを受けなければなりません。
私たちの心に<よみがえる神のことば>がある限り、あなたは神の恵みを受け続け、神様はあなたを通してご自身の栄光を現わしてくださいます。
私たちクリスチャンの生涯は、常に、<心によみがえる神のことば>に頼り続ける生涯なのです。
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』。
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