<讃美歌>讃美歌412番「父の神 このわれを」
<メッセージ>マルコ12章18~27節「復活の確かな希望に生きる」
サドカイ人(サドカイ派の人々)の特徴は、復活を否定することです。
彼らは、イエスを陥れようとして現実にはあり得ないようなことを例に挙げて、「もし復活があるのなら、このような場合、不都合なことが起こるではないか」と言ってイエス様の主張を否定しようとしました。
そのような訴えにイエス様は、「あなたがたは、聖書も神の力も知らない」と言っておられます。
旧約聖書には、復活の預言をいくつも見ることができます。
アブラハムがイサクを神にささげ、剣で刺し殺す直前に神様のご介入によって取り戻したのは、イエス・キリストの死からの復活の型であり、私たちの復活の型でもあります。
エゼキエル書37章1~10節には、谷間にある非常に多くの骨が生きたものとなる復活の預言が語られています。またパウロもⅠコリント15章13,14節で『もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、‥あなたがたの信仰も実質のないものになるのです』。と言ってクリスチャンの信仰の目当ては復活であることを明確に語っています。
もし復活がないのであれば、私たちクリスチャンはこの世で一番みじめな存在です。
私たちは、復活を信じて、神様とともに永遠を生きることに確かな希望を置いてこの地上の生を生きる者だからです。クリスチャンと世の人とを分けるもっとも明確な違いは、死後の復活に確かな希望を持っているかどうかです。
あなたは復活の確かな希望を持っておられますか。
私たちは、復活の確かな希望を持つ時、喜びに生きる者へと変えられます。
それは悩みがなくなることではありません。依然として生活の悩みはありますが、その先に明るい希望を見るのです。日本語で「希望」と言いますと、何となくそこに虚しさも感じ取れますが、復活の希望は100%実現される希望です。
神様は、「無から有を造られるお方」です。
私たちは、サドカイ人のように「聖書も神の力も知らない」者ではありません。
今、八鹿教会にはリバイバルが起き始めているように感じられてなりません。
井上とみ子姉が天に召された後、安雅人君、結乃華さん、戸川万恵さんが来会されました。
教会全体で、復活の喜びをもって、新しい方々を歓迎いたしましょう。
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