ヨハネ4章5~42節
飲み水に渇いたイスラエル人は、エジプトから脱出できた恩を忘れてモーセと争い、神様に不満を叫びます。そこで、モーセが神様に訴え、民に水が与えられます。試練の中で、子どものように叫ぶ民の訴えを神様は憐れんで下さったのです(出エジプト記17:1-7)。皆さんも,神様に対して何らかの不満を持っている、あるいは,過去に不満を持ったことがあるのではないでしょうか。私たちはどうしても神様に不満を訴え,つぶやくものです。
人は神様に祈り賛美します(詩篇95:3-6)。これに対し、神様は、メリバでのように心をかたくなにして主を試してはならないと言われます(詩篇95:8-9)。大切なことは、神様に心を閉ざしてはならず、心を開いて御言葉を聞くことです。祈るとき、聖書を通して語られる御言葉を自分への御言葉として受け止めなければなりません。
今日のヨハネの福音書4:5-42では、イエス様とサマリアの女との対話の中で、女は、キリストと呼ばれるメシアのことを知っていると言い、これに対してイエス様は、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と言ってくださいました。女は心を開いて、イエス様の言わんとすることを理解したのです。サマリアの女は、人生の困難を十二分に味わって来たことでしょう。その困難の中で救いの道を携えてこられたのがイエス様だとわかったのです。私たちにとっても、苦しみに出会った時は、心に信仰が与えられた時だったのではないでしょうか。今日のローマ人への手紙5:1-11にもあるように、私たちには色々な患難の時がありますが、その時は、私たちの救いに至る道が開かれている時です。神様の愛が私たちの心に注がれるからです。私たちは語りかけられる御言葉への理解が遅く鈍いものですが、それでも神様は語り続けて下さるのです。その御言葉がイエス様による罪からの救いを教えて下さいます。ローマ人への手紙5:6-11にあるように、私たちがどのような罪を犯していたとしても、神様は、決して私たちを救いの対象から除かれないのです。
私たちにとって神様の具体的な言葉は聖書の御言葉ですが、この御言葉が一見、文字を通して間接的に感じられても、イエス様からいただくいのちの言葉です。直接的に私たち一人ひとりに語りかけているのです。そして、今日も御言葉を通してイエス様の言葉が、サマリアの女と同じように私たちの心に響いてきます。日々、私たちは御言葉に心を開いて、神様の御声に耳を傾け、祈りつつ、神様から頂く一日一日を大事に過ごしていきたいものです。
(福田 学師)