マタイの福音書17章1~9節
イエス様は三人の弟子を連れて高い山に登られました。するとイエス様の姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。「太陽のような輝き」とは、罪ある人間を焼き尽くす、神様本来の聖さと正しさ、そして厳しさを表しています。
そこへ、旧約聖書の人物であるモーセとエリヤが現れました。モーセは十戒(律法)を神様から受け取った人ですが、その場所も「山」でした。雲が山を覆い、火のような神の栄光が輝き、モーセには恐怖でした。この神様の律法に背くことは恐ろしい罪なのです。
エリヤは預言者でしたが彼も「山」で神様と語りました。自分の限界を感じて死を願うエリヤの前に、大風、地震、火が現れましたが、それらはエリヤを打たず、人のあとで神様の細い声が聞こえ、エリヤに新しい使命を与えました。このように、神様には「厳しさ」と「慈しみ」の両面があるのです。そしてこの両方を両立させたのがイエス様の十字架です。モーセとエリヤはイエス様と話し合っていました。その内容はイエス様の最期、すなわち「十字架」についてでした。本当は栄光に輝くイエス様が、苦しみと死の道を歩まれた。それは、私たち人間が本来受けるべき神様の裁きの「火」を、イエス様ご自身が代わりに受けてくださったということです。きょうの箇所で天から神の声が響き、ペテロたちは恐怖でひれ伏しました。「私は罰せられる!」と思ったのです。するとイエス様は優しく手を触れてこう言われました。「起きなさい。こわがることはない」。この「こわがることはない」という言葉こそ、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられた救いの響きです。神様は罪を罰する厳しいお方であると同時に、ひとり子を犠牲にするほど私たちを愛してくださる慈しみ深いお方なのです。
死の三日目に復活されたイエス様は、いつか再び地上に来られます(再臨)。ペテロは、自分が山で見たイエス様の姿はやがて再臨されるイエス様の姿だったことを晩年の手紙の中で振り返っています(Ⅱペテロ1章)。イエス様が栄光の姿で再臨される時、罪の清算が出来ていない人は火で裁かれます。しかしイエス様を信じる人は、恐怖ではなく喜びをもってイエス様を迎えることができます。変容の山を降りる時、イエス様は「わたしが死人の中からよみがえるまでは、この幻を話してはならない」と命じられました。しかしイエス様はすでに復活されましたので、イエス様の栄光と救いを隠さずに人々に伝えましょう。教会で共に協力し、祈り合いながら、様々な方法で人々に伝えて参りましょう。「イエス様を信じればこわがることはない」という知らせを。
(永田 令牧師)