マタイの福音書2章1~12節

きょうは顕現主日です。「顕現(けんげん)」とは、救い主イエス・キリストが全世界の人々にはっきり現れたことを意味します。マタイの福音書は序盤で異邦人である東方の博士たちの来訪を記し、神の救いの計画がユダヤ人だけでなく全人類に向けられたものであることを強調しています。

ユダヤの王ヘロデは、「新しい王」の誕生に恐れ惑いました。彼は自分の王位へのこだわりが強く、「新しい王」に殺意を抱きましたが、その背景には、自分がユダヤ人ではなくイドマヤ人であったため、「ユダヤの国民から王として認められなくなるのではないか」という恐れがあったのです。このような嫉妬心、猜疑心は誰の心にもあります。つまりすべての人がヘロデのように、神を邪魔者扱いする心を持っているのです。これこそ国籍や年齢に関係なくすべての人が持っている心の闇(イザヤ60:2)です。

しかしそんな人間の闇に光を与えるために、イエスキリストは地上に来られました。そしてすべての人の罪を背負って十字架で罰を受けてくださいました。イエス様を救い主と信じる時、その人の心に光が与えられます。その人たちは、国籍や年齢に関係なく兄弟姉妹となり、ひとつになります。マタイが強調した「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」という真理において、きょう特に注目したいのは「私たち」という言葉です。神様は「私」だけでなく「私たち」と共におられる。相性が合わない相手でも、「私たち」と言える間柄になる。これが教会の不思議さであり、神様の奥義です。教会にそれが可能なのは、イエス様の十字架のおかげです。「キリストは隔ての壁を打ち壊す」(エペソ2:14)。東方の博士たちが、聖書で禁じられていた星占い師だったのに星が招いたのは、どんな罪でも十字架によってゆるされ、隔ての壁を越えることが出来るということを表しています。さらに教会で行われている「聖餐式」が人と人とを一つにします。共に一つのパン(キリストのからだ)を分かち合うからです(Ⅰコリント10:17)。

イザヤ60:3にあるように、教会に集う者たちは一人一人が光り輝く者となります。自分が放つ光ではなく、イエス様の光を反射させる光です。ちょうど太陽の光を反射させる月のように。そしてその光で新しい人々をイエス様のもとへ導くのです。博士たちをイエス様のもとへ導いた星のように。「教会とは建物ではなく一人一人の信仰者のこと」(マルチン・ルター)。信仰者が日々悔い改めて、イエス様の十字架に立ち返り、聖餐によって鏡のように自分を磨くなら、ますます明るく輝いて、世界は新しい星たちで満ちることでしょう。そのことを信じて今年も歩んで参りましょう。

(永田 令牧師)