ルカの福音書15章1~10節

出エジプト記32:7-8では、イスラエルの民が、神様の導きでエジプトから脱出できたにもかかわらず、偶像を造り、いけにえを捧げたことを記します。そこには民の恩知らずな姿がありました。現代でも、ガザでの戦いなど、人間の罪深さは変わりません。その時々、人間は自分の犯した罪を正当化します。出エジプト記32:9-10で言うように、神様が民を絶ち滅ぼすと言われたのは当然です。しかし、ここで人間の想像を超える奇跡は、神様が民を赦すことです。32:11-14で、神様はモーセの言い分を聞いて下さり、いったん決められた罰を思い直されるのです。神様は滅ぼすのではなく、救いの御手を差し伸べて下さるお方です。

Ⅰテモテ1:13-16にあるように、以前、パウロは神様を冒涜し、イエス様を信じる者たちを暴力で迫害する者でした。そのパウロにイエス様の深いあわれみが与えられ、ついにパウロは福音伝道のために人生をささげたのです。そのイエス様の愛は、すべてのイエス様を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられる福音として広がっていくのです。そして、ルカ15:1-10では、イエス様に近寄ってきた人々は、取税人や罪人でした。その様子を見て、自分たちこそ正しいと自負するパリサイ人、律法学者がつぶやきます。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」と。私たちは、このように言うパリサイ人、律法学者たちと全く同じ悔い改めない傲慢な者ではないでしょうか。また、ルカ15:3-6で、イエス様は、いかに神様が人々を一人ひとり、愛しておられるのかを言われています。ここで、いなくなった羊は私でありあなたです。私たちの方から勝手に神様から離れたのです。でも、神様の方から探して下さったのです。そして、神様は、15:7のように、私たちが悔い改めれば喜んで下さいます。一人ひとりを神様は見つめ、待ち続けて下さっているのです。私たちが神様を裏切っても、決して私たちを捨て置かず、神様の方から必ず探し出して下さいます。この神様の深い愛に私たちが気付くなら、この一瞬後からさえも、希望をもって人生を歩むことができるのです。Ⅰテモテ1:15で示されるように、パウロだけが罪人のかしらではなく、真摯に自分を顧みれば、私たち一人一人が罪人のかしらです。私たちが自分の罪深さを悔やんで苦しむ時、そこにイエス様の救いがあります。自分の罪に気付かずに人生を生きることこそ罪深いことです。また、それらの罪を見つめる時、大きな痛みがありますが、痛みの中で見えてくるのは、信仰を通してその痛みから救われることです。私たちが罪の痛みに苦しんでいる時、神様は私たちを顧みて下さり愛の中に包んで下さるのです。

(福田 学師)