ルカの福音書13章10~17節

きょうの福音書は、イエス様が、18年間病の霊に縛られて腰が曲がった女性を癒された箇所です。この女性は人々に白い目で見られながらも毎週安息日に会堂に来ていました。神様を礼拝するためです。「これこそ人間の本分であり、神様の命令である」と知っていたからです。わたしたちも、自分の気分とか状況の善し悪しに関係なく、日曜日には基本的に神様を礼拝しましょう。

しかし、形の上では礼拝していても、それが「形だけ」になってしまうのも人間の弱さです。イエス様が彼女を癒した際、会堂管理者と群衆は憤りました。安息日の規定に反すると言うのです。当時のユダヤ教には、安息日に禁じられた行為が39個あり、病気を治すこともその一つだったのです。しかし安息日の本来の目的は、仕事から離れて心身を休ませ、落ち着いた心で神様の御言葉を聞くこと、そして心も体も癒されて、元気を取り戻すことです。だから彼女の病気が癒されたのは、むしろ安息日にふさわしいことでした。それなのに会堂管理者や群衆は腹を立てました。そんな彼らを、イエス様は「偽善者」とお呼びになりました(15)。「偽善者」は原語のギリシャ語では「俳優」という意味です。彼らは一見神様を礼拝しているように見えましたが、じつは真の礼拝者を「演じていた」だけだったのです。

ところで今日の箇所は「実のないいちじくのたとえ」(ルカ13:6~9)の直後に書かれています。「実のないいちじく」とは「悔い改めないイスラエル人」を指します。つまりルカは、「あなたも悔い改めなければ実を結ぶことが出来ない」と読者に教えているのです。私たちも、自分が真の礼拝者を演じていなかったかを吟味し、本気で悔い改めましょう。そして心からイエス様にすがりましょう。イエス様は十字架によってわたしたちを罪の束縛から解き放ってくださいました。今日の箇所でイエス様は、彼女の肉体的な病だけでなく、罪という根本的な束縛からの解放を彼女にもたらしました。そのとき彼女は心から神様をあがめました。これこそ人間の本分です。

「命(いのち)」という字は「命令」の「命」です。神様の命令によって、わたしたちは命を授かりました。その目的は神様をあがめることです。「命」の字は「口」と「令」で出来ています。「令」の字は、ひざまずいて神様をあがめている人の姿を表しています。わたしたちも神様をあがめ、その素晴らしさと、そのために命をくださったイエス様のことを「口」や行いによって人々に伝えましょう。これこそ神様の命令であり、人間の本分です。この神様の命令を心に刻みながら、私たち1人1人に与えられた「命」を大切に使って参りましょう。

(永田 令牧師)