ルカの福音書11章1~13節
いま高校野球の地方大会が行われています。甲子園を目指す球児たちは、どれほど血のにじむような努力をしてきたでしょう。それと同じように、祈りも血のにじむような思いで必死に祈らないと神に届かない」と考えている人が沢山います。今日の箇所も一見「必死で扉をたたき続けるならやっと開かれる」と教えているように見えます。しかしそうではありません。
8節を原語のギリシャ語で見ると、「あくまで頼み続けるなら」というのは、「激しく祈るなら」「長時間祈るなら」「大きな声で祈るなら」という意味ではありません。「聞かれるに決まっている」というあつかましい態度。「もらう気マンマン」の恥知らずな態度。そのゆえに祈りが聞かれるということです。なぜ祈りが「聞かれるに決まっている」と言えるのでしょうか?それはイエス様の十字架があるからです。イエス様は私たち人間の罪を背負って十字架で死なれ、復活されました。それによって私たちの祈りは必ず聞かれるようになりました。なぜなら私たちが神様の子どもになったからです。
きょうの箇所で、イエス様のお祈りを見た弟子たちは、「私たちにも祈りを教えてください」と頼みました。その自由さや、楽しげな様子に感動したのでしょう。するとイエス様は有名な「主の祈り」を教えてくださいました。まずイエス様は神様のことを「父よ」と呼ぶように勧めました。これは「パパ」とか「お父ちゃん」というニュアンスです。イエス様は神の子ですからそう呼べるのは分かりますが、私たち人間がそんな呼び方をしていいのでしょうか?いいのです。イエス様を自分の救い主(キリスト)と信じて洗礼を受けた人は、神様の子どもとして生まれ変わった者ですから、イエス様と同じ立場です。だから神様のことを「パパ、お父ちゃん」と呼んで良いのです。こうして祈りは「聞かれるに決まっている」ものとなりました。パパは子どもの願いを必ず聞くからです。今や、祈りの根底にあるのは「汗と涙」ではなく「感謝」です。
マルチン・ルターは小教理問答書の中で、「神の御国は それ自体、祈らなくても 来るものですが、私たちの ところにも 神の御国が 来るように
この祈りで 願います」と教えています。つまり「既に神の国が来ていることを、自分としても実感できるように」ということです。
そのように実感させてくださるのは聖霊様です。だから「ますます聖霊様を注いでください」と大胆に、あつかましく祈って行きましょう。遠慮は無用です。♰
(永田 令牧師)