ヨハネの福音書10章22-30節
本日の聖書日課の使徒書9:36~9:43節では、ペテロによって弟子のタビタが生き返った箇所があります。ここで言えることは、行動と祈りと言葉から奇跡が起こったということです。マルコ5:40―41にあるように、ペテロがイエス様の言動をなぞって奇跡が起きたのです。このように、信仰というものは、自分がイエス様と同じ行動をしたときに、同じ奇跡さえ起こすのです。そこから日常生活においても、私たちの行動や言葉、祈りがどれも必要なのだということを改めて思い起こさせてくれます。
イエス様ご自身の奇跡の多くもイエス様の行動と言葉を伴うのであり、最終的にイエス様が私たちの身代わりになって罪からの救いを与えて下さった、ということを私たちが信じていく、そのことが重要です。そして、信仰はこの地上に立ってしっかり御言葉を信じながら、神様にその都度、何が正しいことなのか尋ね求めて、正しい歩みを精一杯していくことです。どんなに罪深い人間であっても、神様への信仰だけで私たちに神様の深い愛が常に注がれているのです。 私たちはその信仰によって、詩篇23篇1~6の所に端的に記されているように、一番大切な魂の糧さえ神様は豊かに与えてくださり、私たちの罪に汚れた魂を日々新しく生き返らせて下さるのです。なぜなら、神様は、一番大切な魂の救いをすでにそなえてくださっており、それは私たちに対する永遠のいのちの約束だからです。その意味で、私たちは、究極的にどんな苦しみに遭おうとも安心して生きられるのです。 そして、詩篇23:3―4にあるように、主によってこそ私たちの魂は生き返り、義の道に導いて頂けます。それは、私たちは神様なしでは悪をなし、悪から抜け出せないからです。しかし、私たちには必ず主がともにおられますから、主に頼ることができるのです。
ヨハネの福音書10:22―30ではイエス様とユダヤ人との対話があり、揚げ足を取ろうとするユダヤ人たちが、イエス様の言葉もわざも信じないことが指摘されます。そして、イエス様が、信じることは自らイエス様についていくことだと言われます。信仰においてイエス様は、信じる私たちを決して離しません。またここで、「わたしと父とは一つです」と、イエス様は父なる神様と同じお方であることを言われます。
このように、私たちが信仰を持って生きる時、深いところで神様に愛され、すべてを通して守られていることが御言葉を通して知らされます。日常生活の中で、私たちが信仰の目をもって見つめ直してみる時、なんと多くのことに神様が配慮し、私たちを助けて下さっているでしょうか。信仰は、必ず永遠の命へと続くのです。そのことを信じて焦らず着実に歩みましょう。
(福田 学師)