ヨハネの福音書12章1-8節
十字架にかけられる6日前、イエス様はベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロという3兄弟の所へ来られました。晩餐の席でマリヤは大変高価なナルドの香油300グラムをイエス様の足に注ぎました。それは1年分の給料に当たります。それを見てイエス様の弟子のユダは「もったいない!」とマリヤを非難し、他の弟子たちも同じように言いました。わたしたちもユダと同じ気持ちになってしまいます。それが人間の本質です。ではなぜマリヤは当然のようにイエス様に香油を注ぐことが出来たのでしょうか?
じつはこの出来事の約1か月前、マリヤの弟ラザロが病気で死んだのです。しかしイエス様はラザロを墓からよみがえらせました。この出来事はマリヤ、マルタ、ラザロの価値観を徹底的に変えました。「イエス様は死さえ打ち破るお方。終わったはずの世界を新しく始まらせるお方」ということが分かり、本気でイエス様を信じるようになったのです。イエス様を知ったあまりの素晴らしさに、「1年分の給料」さえ色あせて見えたのでした。
使徒パウロは昔、自分が生粋のユダヤ人であり、由緒ある部族に属していることをとても誇りに思っていました。しかしイエス様を知ってから、そのあまりの素晴らしさに、そんな過去の栄光を「ちりあくた」とさえ思うようになりました。「イエス様を知る」というのは、ただ知識として知る、ということではありません。イエス様と身も心も一つになり、イエス様のいのちで生きるようになったということです。わたしたちもユダのようにイエス様への捧げものを惜しんでしまう者ですが、そんなわたしたちの罪をイエス様は背負い、身代わりに十字架で死んでくださり、三日目に墓からよみがえられました。そのことを信じる人はイエス様のいのちをいただきます。それは死んでも生きる復活のいのち、地上のどんな苦しみをも乗り越えさせるいのちです。この復活の力を知ったなら、きょうのマリヤのように、地上のすべてのものが色あせて見えます。しかしそれは、すべてが無価値になったということではありません。今まで自分のために使っていた色々なものを、イエス様の福音のために使うようになるということです。これからも御言葉と聖餐によって心も体も魂もイエス様と一つになり、イエス様の復活のいのちに満たされましょう。そして福音のために自分の持ち物を大いに役立てていただきましょう。
(永田 令牧師)