ルカの福音書4章21-30節
今日は先週のお話の続きです。故郷ナザレで顔なじみの人たちと共に礼拝に出席されたイエス様。ところがこの直後、イエス様はその人たちから殺されそうになるのです。いったい何があったのでしょうか?
その礼拝でイエス様はイザヤの預言を朗読されました。「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げ、しいたげられている人々を自由にするために。」それを読んだあと「これはわたしのことだ」と宣言されました。それを聞いたナザレの人たちは、イエス様をほめました。「確かにこの人はキリストだ」と思ったのです。しかし彼らが期待していた「キリスト」とは、便利屋のように自分たちの思い通りに動いてくれる「キリスト」でした。どんな悩みも解決し、食べ物も出してくれ、嫌な人を追い払ってくれる…そんなキリストです。彼らにとって、神様よりも自分の都合の方が大事、神様の言葉よりも自分の考えの方が上だったのです。だから「耳の痛い」言葉には耳を傾けません。それでイエス様は彼らにあえて「耳の痛い」ことをおっしゃいました。旧約聖書に出て来る2つのエピソードを用いて、「神様を知っているはずのユダヤ人が神様から退けられ、神様を知らないはずの異邦人が神様から祝福された」という話をされたのです。ナザレの人たちに反省を促すためです。ところが彼らは反省するどころか、自分たちが侮辱されたと思って激怒し、イエス様を崖から突き落とそうとしました。さっき会堂で神様を礼拝したばかりなのに。
このように、敬虔そうに神様を礼拝していながら心の中で誰かを憎んでいたり、一見優しそうで実は相手を見下げていたりすることが、わたしたちにもあるのではないでしょうか?聖書によればそれは「殺人」です。ナザレの人たちと同じです。これが人間です。でもまさにわたしたちがそのような者であるからこそイエス様は十字架で死んでくださり、身代わりに罰を受けてくださったのでした。「誰がイエスを殺したか?」そう、その答はあなたであり、わたしであり、みんなです。しかし悔い改めてイエス様を救い主として受け入れるなら罪がゆるされ、イエス様の「愛」が心に注がれます。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリント13:13)。わたしたちもこの愛をいただいて、人を殺す者ではなく、人を生かし、助ける者にしていただきましょう。
(永田 令牧師)