マタイの福音書3章1~12節
アドベント(待降節)の2週目となりました。キリスト教会のクリスマスの準備は、世間のクリスマスと違って、必ず「バプテスマのヨハネ」について学びます。バプテスマのヨハネはイエスキリストの少し前に現れ、人々にキリストを迎える準備をさせた人です。ヨハネを抜きにしたら、イエス様のこともわかりません。
ヨハネのメッセージは2つです。「悔い改めなさい」「天の御国が近づいたから」(2)。「天の御国が近づいた」というのは一見喜ばしい知らせです。しかし悔い改めない人にとって天国の到来は恐怖の到来です。人は生まれた時から罪びとであり(詩篇51:5)、自力でこの状態から抜け出せないと聖書は教えています。だから天国の清さや輝きに耐えられないのです。
ヨハネが説いた「悔い改め(メタノイア)」とは、単なる後悔ではありません。人間の思考を超越し、神様の御前で自分の罪を認めることです。その時、まさに人間の思考を超越した救いが訪れます。
律法を厳格に守っていると自負していたパリサイ人や、社会的地位の高いサドカイ人をさえ、ヨハネは「まむしのすえたち(悪魔の子孫)」(7)と呼びました。最初の人間アダムの罪を脈々と受け継いでいるからです。私たちも同じです。カエルの子はカエル、罪びとの子孫は罪びとです。しかしヨハネは「神は、この石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる」(9)とも言いました。「アブラハムの子孫」とは血筋的なユダヤ人のことではなく、イエス様を信じる信仰によって神の子とされた者(霊的な子孫)のことです。イエス様はただ一人、本物の神の子でありながら、石ころのように捨てられ,十字架で死んで,私たち罪びとが受けるべき罰を身代わりに引き受けてくださいました。このイエス様を信じて洗礼を受ける者には聖霊様が与えられます。その人は脈々と受け継いで来た罪の系図から切り離され、全く新しい神の子に生まれ変わるのです。その人にとって「天の御国が近づいた」という言葉はまさに「福音」となり,喜びと平安の調べとなります。
「雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。」イザヤが預言したこの言葉は、やがて来る天国の情景であるだけでなく、この地上においても、イエス様を信じた人は、聖霊の力によって、まるで肉食動物が草食動物になるように、常識を超えた平和な世界を造り出すことができるということを表しています。普通、石ころからは石ころしか生まれません。けれども神様はその石ころから神の子を生み出すことが出来るのです。これからも、石ころのような私たちですが、神の子として輝き、周囲に愛の光を届ける者になりましょう。
(永田 令牧師)