マタイの福音書2章13~23節
年末を迎えました。今年も世界中で紛争や災害といった悲劇が多く起こりました。そんな時、「神様、なぜですか?」という疑問が私たちの中に生まれます。今日の聖書でも、「新しい王が生まれた」ということを聞いたヘロデ大王が、自分の王位を守るためにベツレヘムの幼児を虐殺したという惨劇が記されています。その理不尽さは現代の戦禍とも重なります。
人間には神様の御業のすべてを理解することはできません(伝道の書3:11)。しかし一つ言えるのは、神様は苦しむ者と共に苦しまれる方だということです(イザヤ63:9)。神学者のドロテー・ゼレが説いたように、「神は苦しむ者と共に苦しみ、殺される者と共に殺される神」であり、それは十字架のキリストに他なりません。これこそがクリスマスに聞いた「インマヌエル~神が我らと共におられる)」の真意なのです。
イエス様は私たちと同じく血と肉を持つ人間としてお生まれになり(ヘブル2:14)、私たちの痛みや悲しみを共に味わわれました。父なる神様も「愛する一人子を犠牲にする」という、親の苦しみを味わわれました。このイエス様のいのちという尊い代価によって、私たちの罪は贖(あがな)われ、永遠のいのちをいただいたのです。
マタイは今日のベツレヘムの悲劇とバビロン捕囚の際のラケルの嘆き(エレミヤ31章)とを重ねています。しかしエレミヤ31章には「あなたの将来には望みがある」「子どもたちは帰って来る」という約束も記されています。これは「復活」の希望です。イエス様が死に勝利して復活された事実は、人間に、死を乗り越える「復活の希望」を与えました。イエス様を信じる者は、イエス様と同じように復活します。それは、ただ死んだあと天国で復活するというだけの意味ではなく、今、生きている時に、たとえ絶望して倒れても、何度でも立ち上がることが出来る、ということも意味します。かつてイエス様が「ナザレ人」と呼ばれて蔑まれたように、パウロや他のクリスチャンも「ナザレ人」と呼ばれて蔑まれました。しかしどんな困難にあっても彼らは立ち上がり、イエス様を宣べ伝え続けました。彼らの中にイエス様の復活のいのちが息づいていたからです。クリスチャンのスティーブ・フォックスが属していたバンド「ゴダイゴ」の表記は「Go・dai・go」ではなく「Go・die・go(行って、死んで、また行って)」だそうです。そのように、私たちもイエス様の復活のいのちによって何度でも立ち上がって「行き」ましょう。悲しみに沈む人の所へ、イエス様の復活の希望を届けに行きましょう。新しい年がそのような年となりますように。
(永田 令牧師)