マタイの福音書24章36~44節
今日からアドベントに入りました。アドベントはイエス・キリストが再び地上に来られる「再臨」を待ち望む期間でもありますので、毎年再臨の箇所を読みます。「もう飽きた」と言わないでください。「聖書は古いものでも新しいものでもなく、永遠のものである」とマルチン・ルターが言ったように、いつ、何度読んでも、その都度神様は御言葉を通して私達に新たに語りかけてくださいます。
再臨の「その日、その時」は神様しか知らない、と聖書は告げます。だから「〇年〇月」などと「予言」する人は、間違いなくニセ者です。大事なのは「いつ」ではなく、イエス・キリストが本当にもう一度地上に来られるという事実です。「人の子(イエス)が来るのは、ノアの(洪水の)日のよう」(37)とあります。洪水前の人々は、ノアが警告していたにもかかわらず、飲んだり食べたりといった日常の生活に没頭し、来るべき洪水を冗談だと思っていました。そして水がすべてをさらってしまうまで、彼らにはわからなかったのです。
聖書に記された過去の出来事(ノアの洪水、出エジプト、キリストの十字架と復活など)は、ただ過去のことにとどまらず、現在の出来事でもあり、未来の出来事でもあります。旧約聖書の原語であるヘブル語は、時制が明確でなく、過去(ケデム)は「前」、未来(アハリート)は「後ろ」という意味があります。私たちの感覚と逆のように思えますが、過去は経験したから「目の前」ではっきりと見るようにわかり、未来はまだ起こっていないので「背中の後ろ」のようにはっきり見えないからです。しかし見えないはずの未来(洪水)をノアが確信出来たのは、神様の言葉によります。聖書の言葉を信じる時、未来のことを、まるで過去の出来事のようにはっきり見ることが出来るのです。
聖書が伝える最大のメッセージ、それは、暴虐に満ちたこの世界に再びキリストが来られて世界が終わること、だからその時が来る前に、罪を悔い改めてイエス・キリストの救いを受け入れなさい、ということです。イエス様の十字架と復活は、過去の出来事であると同時に、今、イエス様を信じる人の罪を、今、洗い清めます。再臨は近づいています。だから聖書は「主イエス・キリストを着なさい」と教えています。そうすれば、闇のわざ(遊興、酩酊、争い、ねたみなど)ではなく、光の子として正しく生きることができます(ローマ13:12-14)。
よく教会はノアの箱舟に例えられます。箱舟(教会)の中で日々罪を告白し、キリストを仰ぎ見、聖餐にあずかる時、わたしたちは「剣を捨てて平和を生み出す者」となり、周囲の人々も集まって来ます。「私たちも箱舟に乗せてください」と。イエス様は、昨日も今日もいつまでも、「教会」という箱舟に、一緒に乗っておられるのです(ヘブル13:8)。
(永田 令牧師)