ルカの福音書17章5~10節
今日の箇所で、使徒たちは「私たちの信仰を増してください」とイエス様に願いました(5)。「何度でも赦しなさい」というイエス様の教えを聞いて、「今の自分には到底無理だ」と感じたからです。しかしイエス様は、一番小さな種とされる「からし種」ほどの信仰があれば、桑の木は動き、頑固な心も人を赦せるように変えられるとおっしゃったのです(6)。本当の信仰は、人間の考えとは根本的に異なります。「信仰は人生経験や聖書の学びを通して増す」と思いがちですが、イエス様は「子どもの信仰を見習え」とおっしゃいました(マルコ10:15)。知識や経験のない子どものように、自分が「空っぽ」であることを素直に認めて、イエス様にすがるよう教えられたのです。私たちは神様の前に何も良いことができず、むしろ罪を犯す者です。そのことを認め、「イエス様、助けてください」と、ただすがるしかありません。救い主イエス様は私たちの罪を背負って十字架で死なれ、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。これを信じて洗礼を受ける人は、イエス様をただ知識として知るのではなく、イエス様と一体となって、新しい歩みをするようになります(ローマ6:3-4)。これがからし種の信仰です。
このように、信仰は人間の思考のレベルを超越していますから、頭で「なぜ?」と思うことはよくあります。預言者ハバククが南ユダ王国の暴虐に対して「いつまでですか?」と神様に訴えたのに対し、神様は「さらに凶暴なバビロンをユダに送り込む」と言われました。とても納得できない答えです。しかしそのあと神様は、解決は必ず来るので待つようにとハバククに命じ、「正しい人はその信仰によって生きる」とおっしゃったのです(ハバクク2:4)。この言葉はバビロンからの解放を預言したものですが、究極的には「イエス・キリストを信じることで永遠に生きる」ということを預言しています。ハバクク書は最後は神様への賛美で終わっています。
ルカは多くの箇所で12弟子のことを「弟子」と書いていますが、今日の箇所では「使徒」と書いています。つまり神様は、その人が人生経験や知識が豊富だからという理由ではなく、「私は役に立たないしもべです」と認めてイエス様にすがる人を使徒(遣わされた者)として選ばれるということです。「信仰はキリストをもたらす導管ないし容器であり、それ自体は空(から)である。」とカルヴァンが言ったように、私たちも御言葉と聖餐によって内側を清めていただき、空っぽのパイプとなりましょう。その時イエス様ご自身が私たちを通って自由に働き、役に立たない私たちが「使徒」としての務めを果たす者となることでしょう。
(永田 令牧師)
