ルカの福音書18章9~14節
宗教改革はマルチン・ルターが「95箇条の提題」を教会の外の掲示板に貼り出したことから始まりました。ルターがずっと悩んでいたのは「どうしたら神様から義と認められ“あなたの罪はゆるされた”と言っていただけるか?」というものでした。どんなに難行苦行をし、善行を積んでも、彼は救いの確信を得られませんでした。しかしついに答えがわかり、その喜びと真理を広く伝えたことが、全世界の教会に革命を起こす結果となったのです。
ルターのこの問いへの答えが今日の聖書箇所に記されています。パリサイ人は自分が神の律法を守っている「義人」であると自任し、「他の人々を見下している者たち」の代表でした。彼は「祈りの家」であるはずの神殿で、神様に向かってではなく「自分自身に向かって」祈っていました。「自分は不正な者でも姦淫をする者でもない」と。しかし、人に対して「あなたは正しい」と宣言できるのは、神様ただ一人です。神様の目から見れば、パリサイ人も心の中で不正をしたり姦淫したりする者、また貧しい者を助けていない者、つまり律法を破っている「罪びと」であり、義人ではなかったのです。
一方の取税人は、多めにお金を集める等の不正を働いていましたが、神殿に入った時、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず」、ずっと胸をたたいていました。それほどに、自分は聖なる神様の前に立てない罪びとであると自覚していたのです。罪の自覚だけでは絶望に終わりますが、彼は「義と認められて」安心して家に帰ることができました。なぜでしょうか?彼はこう祈りました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」。この「あわれんでください」(ヒラスコマイ)という言葉には、「償う」「なだめの供え物をする」という意味が含まれています。取税人は、自力で償えない自分の罪を、神様ご自身が償ってくださるようにと求めたのです。神様は、私たち人間の代わりに一人子イエス様を十字架につけ、私たちの罪を贖う「なだめの供え物」としてくださいました。このイエス様の贖いを信じる時、その人は神様から義と認められ、「あなたは大丈夫だ。あなたの罪は赦された」と言っていただけるのです。この神様のあわれみを知った人は、他人に冷たかったパリサイ人のような者ではなく、苦しんでいる人々に救いの手を差し伸べる者へと変えられていきます。使徒パウロが処刑を目前にして、なおすべての人に福音が宣べ伝えられることを願ったように。またルターが死の間際まで人々を励まし続けたように。私たちもイエス様の償いによるあわれみに感謝し、神様と隣人のためにこの命を用いていただきましょう。
(永田 令牧師)