ルカの福音書18章1~8節

イエス様は弟子たちに、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを教えるために、たとえ話をされました。神を恐れず、人を人とも思わない裁判官でも、しつこく願い続けるやもめの願いを聞いたという話です。このたとえで驚きなのは、愛に満ちた神様が、「神を恐れず人を人とも思わない裁判官」にたとえられている点です。わたしたちが祈るのをやめて失望しがちなのは、私たちが根本的に罪びとであり、神を恐れず人を人とも思わない者だからです。この裁判官の姿は私たち自身の姿です。祈りとは、祈りながら「神は祈りを聞いてくれない」とつぶやいている自分自身の罪との戦いなのです。祈りながら神を疑い、人のために祈りながら気づけば自分のために祈っている私たち。しかし、それでもイエス様は「祈り続けなさい」とおっしゃいます。なぜなら、この祈りの「格闘」を通して、私たちは十字架のイエス様と出会うからです。本質的に神を恐れず人を人とも思わない私たちを救うために、イエス様は十字架で死んでくださいました。誰よりも神を恐れ、他者のために生きたイエス様が、「神を恐れず人を人とも思わなかった」罰で死なれたのです。すべて私たちの代わりです。私たちが祈り始めた時に感じるしんどさや失望の中でこそ、「こんな私のためにイエス様が身代わりに罰を受けてくださったのだ」ということがあらためてわかり、私たちは喜びを新たにします。そのために私たちは祈り続けるべきなのです。

創世記32章のヤコブの物語は、この「祈りの格闘」を象徴しています。兄エサウから長男の権利を奪ったヤコブ(「押しのける者」の意)は、ヤボク川の川辺で神の御使いと夜明けまで格闘しました。ヤコブは「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と泣きながら願い、その願いは聞かれました。神様はヤコブに「イスラエル」という新しい名前を与えました。その意味は「神は戦う」です。神様ご自身が罪と戦って勝利し、その勝利を私たちに譲ってくださったのです。ヤコブはこの格闘で、もものつがいを打たれて足を引きずるようになりました。しかし彼の上には太陽がのぼりました。それは「義の太陽」すなわちイエス・キリストを表しています。その光は、私たち罪びと照らし、癒し、再び立ち上がらせる光です。「ばけばけ」の舞台「松江」のクリスチャンたちは、激しい迫害の中で何年間も涙の祈りを続け、その結果、偉大な働き人バックストンが松江に遣わされました。私たちも泣きながらも、戦いながらも、失望せずに祈り続けましょう。そのとき私たちの上に義の太陽が上り、いやしと喜びが新たに与えられることでしょう<マラキ4:2>

(永田 令牧師)