ルカの福音書4章14-21節

きょう礼拝に出席されている方は、「迷った末に来た」のではなく「習慣だから来た」「いつも通りに来た」という方がほとんどだと思います。イエス様もそうでした。「イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた」(16)。すでにナザレを離れて伝道活動をされていたイエス様でしたが、久しぶりに故郷ナザレに帰られ、30年近く通われた会堂に「いつものとおり」入られたのです。これは大事なことです。今年の姫路教会のあいことば「主の宮を整えよう」は、ただ建物のメンテナンスをするということではありません。「いつものとおり」御言葉を聞き、祈り、聖餐にあずかることで「自分自身」という宮を整える、という意味でもあります。今年そのような年として参りましょう。
会堂に入られたイエス様は、旧約聖書を朗読されました。「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。…」(18)。これはイエス様より700年も前の預言者イザヤの言葉ですが、イエス様は「これはわたしのことである」と宣言されたのです。事実イエス様は、人々を悪魔の束縛から解き放ち、目の見えない人の目を開かれました。しかしナザレの人々はイエス様を救い主と認めませんでした。イエス様の朗読の前に朗読されたはずの律法の言葉(神様からの戒め)を「自分のこと」として受けとめなかったからです。自分が罪の奴隷であり、霊の目が閉ざされた者である、ということを認めない限り、イエス様が救い主であることはわかりません。律法の言葉を聞いて心から悔い改める時、「こんな罪深い私を救うためにイエス様は十字架で死んでくださった」ということがわかり、大きな喜びと感謝に満たされます。
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(21)。実際に聖書の言葉が書かれたのが何千年前であっても、「今」聞いて信じるなら、「今」その人に大きな喜びをもたらします。過去を悔んだり、未来を心配してしまう私たちですが、「今」語られている御言葉を信じましょう。信じたその時こそが恵みの時であり、信じたその日こそが救いの日なのですから。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

(永田 令牧師)