ルカの福音書3章15-17、21-22節
イザヤ書43:7で、すべては神様の栄光のために創られたと言います。だから、神様は創造なさった全てのものを深く愛されておられます。その上で、神様の栄光は、創造された私たち自身にかかっています。詩篇8:5にあるように、神様の栄光を反映したものが人間です。そして、イザヤ書43:3-4で、神様が罪多きイスラエルの民を赦され祝福されたように、イエス様を通して人類すべてを祝福されている方が父なる神様です。
御子イエス様が登場する少し前に、洗礼者ヨハネがイスラエルに現れましたが、それは人間としてでした。一方で、イエス様は完全な人間であり、神様と等しいお方です。ですから、ヨハネが言うとおり、聖霊と火のバプテスマは父なる神様の御子イエス様によって授けられます。そして、ここから、父と子と聖霊の三位一体のバプテスマを通して私たちをその罪から救ってくださるのです。
一方で、私たちは長い人生では、加害者になったり、被害者になったりします。それらの苦しみの中にあっても、私たち自身よりも私たち自身をよくご存じの主なる神様が共におられます。このことは完全には私たちには理解ができません。私たちは神様によって造られた側だからです。それでも、自分が気づかなくても、特別の愛を神様が注いで下さっています。ルカの福音書3:16-17で洗礼者ヨハネが言うように、イエス様は火もお持ちで、罪びとに厳しい裁きを行う方ですが、すでに私たちの罪は、イエス様の十字架の贖いによって焼き尽くされているのです。それは、神様からの特別に私たちに与えられた深い恵みです。
一人一人が神様のご計画の中で特別に見守られながらも、日々、様々な罪を犯しています。父なる神様は、このような私たちに御子イエス様のいのちを与えて下さいました。それしか助ける手段がないほど、私たちは罪深かったからです。そして、父なる神様はご自分の御子を愛するように、根本的に私たちを喜んでくださっており、その愛が御子イエス様を通して、周りの人たちや子孫へとつながっていきます。
だからこそ、私たちは神様が創造されたすべてのものを愛し、自分を含めたすべての人々を愛していくのです。現実には、日々すべての人々を愛せるわけではありませんが、まず、イエス様の方を向いて、神様に守られて生きてこられた自分自身を大切にして、曲がりくねってガタガタの道をイエス様と共に歩いていこうではありませんか。その先には、天の御国が必ず備えられているのです。
(福田 学師)